「内」と「外」に分かれたモンゴル民族
モンゴルには、独立国家としての「モンゴル国」と、中国の「内モンゴル自治区」があります。国境を挟んで同じ民族が存在し、標準的なモンゴル語はほとんど同じで、同じチベット仏教を信仰しています。
なぜ同じ民族が「内」と「外」に分かれているのでしょうか?実は、モンゴル民族には「統一国家」を求める動きがあり、戦前の日本の動きと無関係ではありません。
モンゴルは元々、一つの民族による国でしたが、17世紀に中国の清の一部となりました。その後、清からの独立と「内」と「外」の統一を目指す動きが起こりました。今年は、モンゴル統一を掲げたモンゴル族による政党「内モンゴル人民革命党」が誕生してから100周年の節目でもあります。
この政党は、当時独立を果たした外モンゴルに合流しようとしましたが、1932年に満州事変が起き、日本が現在の中国東北部に傀儡国家「満州国」を作ると、内モンゴルの一部はその満州国に統合されました。日本の敗戦後、内モンゴルは再び中国に統合され、政権を獲った中国共産党は内モンゴル人民革命党の活動を否定し、幹部の粛清や虐殺も起きています。
日本と協力し「統一」を夢見た徳王
これとは別に、内外モンゴルの統一を夢見た人物がいます。日本の歴史上は「徳王(とくおう)」という名称で知られ、本名はデムチュクドンロブ。チンギス・ハーンの血を引くモンゴル族の王族に生まれ、内モンゴルの自治権獲得、そして独立、外モンゴルとの統合を目指しました。その手段として日本と協力します。
1939年には日本軍の援助のもと「蒙古連合自治政府」を樹立し、自らトップの主席に就任しました。この自治政府も満州国と同様、日本による傀儡政権でした。徳王は日本を訪れ、天皇に拝謁するほど厚遇されましたが、日本は徳王の夢を利用したとも言えます。日米開戦前、日本はアメリカから「中国から軍隊を撤収するように」と要求されましたが、このモンゴルエリアにも多数の日本軍が駐留しており、日本はこの要求を拒んで戦争へと至りました。
日本の敗戦後、徳王は中国に送還され、戦犯となりました。戦前、徳王と親交のあった日本人には、後に総理大臣になった大平正芳がいます。彼は1939年に大蔵官僚として、中国大陸にあった日本の占領地を管理・運営する組織(蒙疆連絡部)に幹部として赴任し、たびたび徳王と会っていました。これもまた、日本の関与を示す一ページです。