「逃げるわけにいかない」特攻に志願した理由 「一億特攻」を生む空気
そして、1944年7月。
日本の統治下にあったサイパン島が陥落し、戦況は大きく悪化します。

同じころ、約2年半にわたる訓練を終えた大木はいよいよ実戦部隊へ。

10月には、フィリピンから初の特攻隊が出撃。死ぬことを前提とした体当たり攻撃のはじまりです。
大木の親友、神馬さんも18歳の頃、特攻に志願。その理由をこう話します。

神馬さん
「特攻隊志願する者一歩前に出ろ』と。私は出た」「1人で引っ込んでいることができますか?残れるはずがない。それまで犠牲的精神とか、共同責任だとか育てられてきたのに」
「逃げるわけにいかない」

大木の親族・道脇さんは、これまで多くの元特攻隊員から志願したときの思いを聞いています。

道脇さん
「『死ぬことより先にあったのは、敵をやっつけること。小さい頃から軍国主義で育ったのだから当たり前だ』という人がいる一方で『特攻作戦なんてあんな馬鹿げた作戦を一体誰が考え出したのか』とすごくいら立っていた人も」

それでも、多くの若者が特攻に志願しました。
新聞は〈身を捨て国を救ふ〉とたたえます。やがて、「一億特攻」という言葉も…
社会全体が特攻作戦を後押しします。
奈緒さん
「個々の思いと別に国全体の雰囲気で、ひとつの方向に向かっていってしまったところがあるのかなと…」
道脇さん
「もう当時はまさにそのような感じで、なかなか自分の意見を言うことが出来なかった。その同調圧力ですよね」

予科練から戦地に行った約2万4000人のうち、実に8割が戦死。大木と神馬さんの同期も、半数近くが戦死しました。
そして、1945年8月15日。“終戦”を知らせる玉音放送。
「正夫さんは帰ってくる」正夫の恋人・芳子さんは、そう信じていました。しかし、正夫が戻ってくることはありませんでした。