あの日何があったのか? 生存者が語る「最後の特攻」の真実

あの日、いったい何があったのか・・・
大分市、別府湾を望むこの場所に、かつてあった航空基地から「最後の特攻隊」が出撃しました。


「終戦」の後の特攻隊を写した貴重な写真が残っています。
白鉢巻きをまいた22人の若者たちの中に、大木がいました。

川野和一さん。大木らと一緒に出撃しています。
しかし、敵が見つからずに引き返し、途中、燃料切れで不時着。生還しました。
あの日の真実とは…

川野さん
「我々は、終戦というのは全然知らんですけん、玉音放送は聞いていないわけですよ」
8月15日の正午、整備兵らが玉音放送を聞いているとき、大木や川野さんら隊員は、ラジオから離れた場所で待機させられていました。
隊員たちの一部は、その後、基地内の噂を聞くようなかたちで終戦を知ります。
そして4時間後…
隊員の前に現れた宇垣纏司令長官が…

宇垣纏司令長官
「ただいまより、本職先頭に立って沖縄に突入する」
これまで多くの若者に、特攻を命じてきた宇垣長官が自らの死に場所を求めていたのか、共に特攻に出ると宣言したのです

自らの死に場所を求めていたのでしょうか。
この時の特攻機「彗星」は、操縦員の後ろに偵察員が乗る2人乗り。大木は偵察員。操縦するわけではありません。そこで、宇垣長官が…
川野さん
「宇垣さんが『偵察員戻りなさい、どうせ行ったら死ぬんやから、お前ら無理に死ぬ行く必要ない』と」
「そしたら偵察員怒ってね、『今まで3年なり4年なり、一緒に生死ともにしてきたのに我々に残れというのは、承知できん』っていうてね…わしらも行くってなったわけ」
そして、大木を含めた18人が戦死。不時着し生還したのは5人。
アメリカ軍の被害は記録がありません。
「ただの終戦の日ではない」“最後の特攻”直前の2枚の写真が語るもの
大木の親友・神馬さんは…
神馬さん
「今自分が行けば、天皇が喜び、日本の国が喜び、国民が喜んでくれるならば、今自分が犠牲になってもいい。僕はだから行ったと思う」

特攻に出撃する直前、笑顔で写真に写る大木ら隊員たち…
実は、もう一枚同じタイミングで撮られた写真が残っていました。こちらは…笑ってはいませんでした。

奈緒さん
「これが同じ日なんだっていうことが、この1日にどれだけの皆さんの思いとか、覚悟というものが詰まっていたんだろうっていうのが、この2枚を見ただけでも」
道脇さん
「心に決めても悔いはないかもしれないですよ。ですけれども、この方たちを思っていた家族とか、大切な人とか、いっぱい待っていた人がいると思います。だから、8月15日はただの終戦の日ではない」
大木の恋人・芳子さんにとってもそれは同じでした。戦後4年間も、大木の帰りを待ったのです。
当時は、特攻で戦死したと思われた人が、数年後に帰ってくることがあったからです。
大木は、特攻に出る前、芳子さんへ手紙を送っていました。
そこに書かれていたのは…

道脇さん
「手紙には『純情な芳子さんのことが大好きです。海軍に入って1年間は泣きました。自分でも何で泣いたのか分からない』っていう。内容を聞きました」
奈緒さん
「自分の弱さを見せない方が1年間泣いたっていう事と、大好きだっていう思いを伝えられてたんだなって思うと、溢れてしまう思いがたくさんあって綴られていたんですね」
芳子さんは、去年亡くなりました。

晩年を過ごした部屋には、2つの写真たてが並べてありました。右は大木の写真、左は地元での大木の後輩、勝二さん。芳子さんは、のちに勝二さんと結婚したのです。
楽しかった仲間との日々を大切にしていました。
また、芳子さんはお孫さんに、思いを伝えていました。

芳子さんのお孫さん
「戦争は絶対ダメだよとは言っていたので、それはずっと変わらない思いなんだと思います」
(2025年8月14日放送 戦後80年特別番組『なぜ君は戦争に? 綾瀬はるか×news23』)