「差別は残酷」“反日”に恐怖を感じる
日系人たちを隔離したアメリカ政府はさらに、反日プロパガンダを推し進めていく。当時の映画館では、日本人が出っ歯で大きな眼鏡をかけた姿で描かれたアニメが流れた。『GO HOME(国へ帰れ)』や『WHY ARE YOU HERE (なぜアメリカにいるんだ)』というような言葉とともに、日本人はいつも悪役で、必ず殺される側だった。
アメリカ政府の情報操作とそれに流されていくアメリカの人々…。しかし黒人として、差別されることの残酷さを知るバーバラさんは、こうしたアメリカ国内の空気に深く傷つくとともに、恐怖を感じたと言う。
「心が痛かった。彼らが差別されるのはとても辛いことでしたし、あってはならないことでした。私たちの隣人がいなくなってしまった後、Jフラットに残された私たちはさらに結束を強めました。自分たちも昔のように、奴隷として連れていかれるのではないか、どこかに隔離されるのではないかと思ったのです」

原爆投下を喜ぶアメリカ 隣人思い「複雑」
1945年8月6日、アメリカは史上初の原爆を投下した。
「新聞に、爆弾が落とされた瞬間や、巨大なキノコ雲の写真が載っていました。その雲はとても大きく、灰が広範囲に広がっていったと書かれていました。原爆が投下されたと知って人々は喜んでいました。でも私は、その爆弾がもたらした壊滅的な被害を思うと、複雑な気持ちでした」
バーバラさんは当時、十分理解することができずにいたと振り返る。原爆で亡くなったのは、Jフラットで共に暮らした日系人たちの家族かもしれない。18歳にとって原爆投下は、理解するには大きすぎる出来事だったのかもしれない。
そして8月15日、日本が降伏。長かった戦争が終わった。
「人々は終戦を祝い、道路で歓声をあげていましたが、私は到底喜べませんでした」

98歳の今も続く交流「簡単に切れるものではない」
実はバーバラさん、今年5月に日本旅行から帰ったばかりだった。孫のロビンさんにクルーズ旅行をプレゼントされたのだ。98歳という高齢だが、東京や大阪などを訪れ、大いに楽しんだと言う。日本滞在中のホテルである女性との再会も果たした。
「私と夫は40年以上前から、日本人の学生をホームステイで受け入れてきました。そのときの学生のうちの一人が電車で会いに来てくれたんです。私たちは、もう40年以上、文通を続けてきましたから」
バーバラさんは戦後もずっと、日系人や日本人と、家族のようにして関わり続けてきた。
「(日本人との)違いなんて感じたことはありません。日系人の方々が収容所に向かうとき、集まって朝食をとりました。あたたかなひとときでした。そうして生まれたつながりは簡単に切れるものではありません。私の心はあのころから変わっていません。日系人は私の人生の一部で、家族でもあります。あなたも含めてね」
