被爆地・広島出身の俳優、綾瀬はるかが、戦後80年の節目にアメリカに渡った。これまで20年間、取材で日本各地をまわり、戦争体験者の貴重な話を聞いてきた綾瀬だが、当時の“敵国”アメリカで戦争体験を聞いたことは余りない。取材を進めると、アメリカではマイノリティーとして差別の対象になっていた日系人と黒人との間に知られざる絆があったことを知る。そして、こうした個人の絆をも引き裂こうとする戦争の残酷な実態、情報操作の恐ろしさを実感した。(TBS/JNN 戦後80年特番「なぜ君は戦争に?」ディレクター・嶋田万佑子)
「Jフラット」日系人や黒人が肩寄せ合う街
大谷翔平の活躍に沸くアメリカ・ロサンゼルス。ダウンタウンから車で20分ほどの距離に「Jフラット」と呼ばれる街があったことは、余り知られていない。この地には、100年以上前から、リトルトーキョーで働く日系人が多く暮らしていた。

綾瀬はるかは、Jフラットで生まれ育った98歳のアフリカ系アメリカ人を訪ねた。バーバラ・マーシャル・ウィリアムスさん。80年前はまだ高校生で、バーバラさんの家の両隣には日系人家族が住んでいた。バーバラさんは当時を懐かしむように、微笑みながら話し始めた。
「近所の子どもはみんな空き地や道で一緒に遊んでいました。母はケータリングの仕事をしていて、お客さんに出す食事が余ると、隣のホシザキさんの家に持っていきました。翌日にはホシザキさんが何かをお返しに持ってきます。本当に私たちは家族のようだったんです」
白人が支配的だったアメリカ社会。当時、公共施設の分離や教育機会の制限など、黒人に対しては差別があった。「Jフラット」には日系人のほかにも移民が多く、自然と連帯感が生まれていったと言う。みんなが肩を寄せ合って暮らしていたとバーバラさんは振り返る。

「日系人は馬小屋に」戦争で“空気”一変
しかし、戦争が、バーバラさんと日系人たちとの絆を引き裂こうとする。1942年、アメリカ政府は日系人を敵とみなし「敵性外国人法」を適用、全米各地の強制収容所に送った。その数は12万人以上にも上る。
「私の隣人たちは、まずサンタアニタ競馬場に送られ、馬小屋に住まわされました。あまりにも突然のことで他に受け入れ先がなかったからです。隣人や友人が馬小屋で暮らすことになるなんて、本当に衝撃的で、心が痛みました」
バーバラさんは、日系人たちが収容所に送られる日の朝のことを、鮮明に覚えていた。バーバラさんの母は、ベーコンやたまごを焼いて朝食を用意し、出発前の日系人たちにふるまった。
「私は悲しくて涙を流していましたが、日系人たちは本当に毅然としていました。とても落ち着いていました。本当はとても辛かったはずです。家を離れなければならなかったのですから」
バーバラさんは、涙ながらにそう話した。