
(伊藤宣夫さん)
「兵隊さん助けて。兵隊さん水、水とかすかに言うけど、なんともならず、頑張って頑張ってという以外なかった。辛かった」
伊藤さんはけが人の救助に当たりつつ、6日の夜に軍の通信の仕事のために爆心地に近い市街地に向かいました。
そこで見た光景とは…

「青白い炎は家の下敷きになって、出るに出られなくて生きたまま焼かれたんですよ。本当の生き地獄だ」

伊藤さんは原爆投下からおよそ1か月後の9月10日、復員命令が出され、遠野市に戻ってきました。

(伊藤宣夫さん)
「これが私の最後のものになった。水筒と雑嚢はもってきた」
布製のカバンの雑嚢はその後紛失したため、現在はこの水筒だけが当時を語る物として手元に残っています。

伊藤さんは終戦後に遠野市で知り合ったツヱ子さんと結婚。
60年を一緒に過ごしたツヱ子さんは9年前に亡くなりました。

伊藤さんは妻の墓石の横に石碑を建てて、自らの体験を後世に伝えるため平和のへの願いを刻みました。
(伊藤宣夫さん)
「平和と命の大切さとして、原爆体験記、遺書として残しました」

(伊藤さん、石碑の文を読む)
「全世界人類が恒久平和を堅持し、豊かな幸福な人生を送ることを切に念願し…」
(伊藤宣夫さん)
「本当にね。大変なところにいましたよ。言葉で言い尽くせないくらいの被害だった」

80年の節目を迎えた6日、盛岡市内で自らの被爆体験を語った伊藤さん。
講演の最後には自身の思いを込めた和歌を詠み伝えました。

(伊藤宣夫さん)
「ヒロシマや
地獄の町の
青い炎よ
平和の道を」

伊藤さんは自らの被爆体験をもとに、平和への思いをこれからも語り継いでいきます。