「私が名前を書いたら、彼は一週間以内に死んでいく」

【画像⑤】

飛行学校を卒業後は、台湾の宜蘭(【画像⑤】地図参照)にある特攻隊の作戦室に所属。文字を書くのが得意だった多胡さんは、出撃の命令書を書く任務に就けられました。

【画像⑥】

(多胡恭太郎さん)
「書き出しが『諸情報を総合するに、敵は沖縄・慶良間方面に集結せり。わが軍はこれを捕獲殲滅せんとする。飛行第百十五戦隊は二機をもって、これに対処すべし』」

命令書には、上官が決めた、飛び立つ隊員の名も記さねばなりませんでした。

(多胡恭太郎さん)
「上官が『今度は誰が行くか』と行く人を決める。二人か三人かね。そうすると紙に書いて、私のところへ出す」

「私は、作戦命令書の中に名前を書くわけですよ。そうすると一週間以内に彼は死んでいかなきゃいけない」

【画像⑦】

それは「例えようのない辛さ」だった

命令書を書くたびに、仲間が逝く…。

【画像⑧】

(多胡恭太郎さん)
「死刑宣告の名前を書くようなものですからね。あの辛さは例えようがない」

「一緒に飯食ってね、一緒に笑ったやつがね、私が名前を書いただけに一週間以内に飛行機に乗って死んでいくんですからね」

「私が書いたら名前を書いたら、彼は一週間以内に死ぬるんですから。一緒に飯食ったやつを殺すわけですからね」

【画像⑨】

宜蘭から飛び立った隊員が向かったのは沖縄。1945年3月、アメリカ軍との沖縄戦が始まると、死力を尽くした特攻が行われました。

多胡さんが書いた命令書で発ったのは十数人。このとき、陸軍だけでも1000人を超える特攻隊員が戦死したとみられています。

(多胡恭太郎さん)
「今でも涙が出ますよ。この話するとね。顔ひとつ覚えてますもん」