「捜査関係事項照会」とノンキャリアの自殺

強制捜査から2日後の1月28日、大蔵省に激震が走った。
東京地検特捜部から参考人として呼び出しを受けていた、大蔵省銀行局総務課の「金融取引管理官」のO氏が自ら命を絶ったのである。54歳だった。

この日、O氏は午後1時30分に東京地検に出頭するよう求められていたが、指定時刻になっても姿を見せなかった。
検察関係者が各所に連絡を取り続けたが、行方がわからず、午後9時頃になって、東京・渋谷区広尾の官舎で死亡しているのを家族が発見した。

O氏は1962年に大蔵省に入省。いわゆるノンキャリア組でほぼ銀行局一筋に歩み、1995年からは「金融取引管理官」を務めていた。
このポストは大蔵省のノンキャリア職員にとって最高位のポストであり、金融検査官の人事や給与を統括する立場にあった。130人を超える金融検査官のまとめ役であり、現役とOBからなる「霞桜会」の中心的人物でもあった。人望も厚く、「ノンキャリアの星」と呼ばれる存在だった。
平日は通勤のため東京・渋谷区広尾の官舎に暮らし、週末には千葉の自宅に戻るという生活を続けていた。

当時の特捜幹部の一人は背景をこう明かす。

「実は、特捜部が銀行に送付した『捜査関係事項照会』に、『大蔵官僚12人』の名前が、いわゆる“接待リスト“として記載されていた。O氏もその一人だった」
「だが、実際には特捜部は、誰が本当のターゲットなのかを悟らせないように、ダミーの官僚も含めて“五十音順”に並べただけで、順番に意味はなかった。しかし、苗字が『お』で始まるO氏の名前が最初に記載されていたため、O氏本人は“自分が筆頭のターゲットに挙がっている”と誤解してしまったようだ」

この『捜査関係事項照会』の写しが、何らかのルートで大蔵省に渡っていたのだ。
特捜部が銀行側に示した照会文書が、大蔵省側に漏れていた事実は、あらためて銀行と大蔵省の「ズブズブの癒着関係」の根深さを物語っていた。

大蔵省関係者の話によると、O氏はその『捜査関係事項照会』に記されたリストを見て、「自分も嫌疑を掛けられ、逮捕されるのでは」と深刻に受け止めていたという。

当時のMOF担はこう証言する。

「Oさんは、逮捕されたTさんをかわいがっていた。Oさんは中央大学の夜間部出身、Tさんは高卒で共に苦学して、金融検査官の職に就いた。同じ境遇への共感もあったと思う。いずれOさんはTさんを後継にしたいと考えていた」
「Tさんが三和銀行から接待を受けていたことを知り、Oさんはやめるよう忠告した。だからこそ、Tさんの逮捕には大きなショックを相当受けていたことは確かだ」

特捜部の副部長だった山本修三(28期)は、当時の判断を振り返る。

「O氏に関しては、銀行から提供されたタクシーチケットの話はあったが、いわゆる『つけ回し』のような悪質性はなく、立件対象からは外していた。特捜部としては、O氏を逮捕するつもりはなく、むしろO氏への参考人聴取を通じて、キャリア官僚に関する情報を得たいと考えていた」

特捜部として次の捜査の展開は、あくまで「大蔵キャリア」を本丸と定めていた。
そうした中、山本や大蔵ルート班長の大鶴基成は「ノンキャリのO氏に悪質性はない」と判断し、もともと刑事責任を問う意図はなかった。
しかし、O氏は信頼していた部下だったTの逮捕、メディアの過熱報道、そして自らの名前が筆頭に記載された「接待リスト」ーーそれらが重なり、精神的に追い詰められていったとみられる。

一連の総会屋事件、大蔵接待汚職の捜査では、第一勧銀の宮崎邦次元会長など、関係者の自殺が相次いだ。O氏死亡の翌月の2月には、日興証券への「利益要求」で逮捕許諾請求が出ていた大蔵省出身の新井将敬衆院議員がホテルで自殺している。
大蔵省内や官邸からは、「特捜部の捜査はやりすぎじゃないのか」という批判の声も上がりはじめていた。
 
一方で、世論の大蔵省への怒りは収まらなかった。
大蔵キャリアの「接待づけ」の実態に、国民の不満は頂点に達しようとしていた。とくにノンキャリアの職員ばかりが逮捕され、自殺者が相次ぐ中、大蔵省内部ではこんな疑心暗鬼も広がっていた。

「エリートのキャリア官僚が、責任を逃れるためノンキャリアに責任を押しつけ、検察に情報提供しているのではないか」

「ノンキャリは歯車に過ぎない。高額接待を当然のように受けていたキャリア官僚の責任はどうなのか」

そんな声が、日に日に強まっていった。

O氏が亡くなった28日の夜、事務方トップの大蔵省事務次官・小村武は、橋本龍太郎総理を公邸に訪ねて、ようやく辞意を伝えた。小村については当初、三塚大臣が辞任した段階では「辞任しない」との意向が伝わっていた。
これに対して、自民党の加藤紘一幹事長は「責任の取り方については、国民がじっと見ている。三塚大臣の辞任だけでは決着とはならない」と述べるなど、小村や大蔵幹部が責任を取ることは当然だと強調していた。
小村の在任期間は、わずか6か月で戦後最短の事務次官となった。後任にはいったん大蔵省を卒業して内閣官房の内政審議室長に転出していた田波耕治が異例の復帰となった。

特捜部は「大蔵省OB」の「日本道路公団理事」に続き、「大蔵省ノンキャリア」の「金融検査官」を摘発したが、世論は「大蔵キャリアこそ巨悪の根源」だと受け止めていた。国民の怒りは、高額な接待を受けていたとされる「大蔵省キャリア官僚」に向かっていた。

特捜部は「国民が納得するためには金融行政の実権を握る大蔵キャリアをやらなければ」との強い意識があった。

「ノンキャリアだけを摘発して終わると、検察が大蔵キャリアをかばったと思われる」(元特捜幹部)

世論の後押しを受け、特捜部は大蔵キャリアへの捜査のピッチを上げ、証拠は最終局面へと突入していく。

亡くなった金融取引管理官O氏の官舎の現場検証 1998年1月28日
東京地検特捜部の強制捜査を受け「金融検査官」が逮捕された大蔵省