終戦の4ヶ月前、石垣島に墜落した米軍機搭乗員3人が処刑された「石垣島事件」。戦後、BC級戦犯として米軍に裁かれた藤中松雄は、死刑を宣告された。上官の命令によって、杭に縛られた米兵を20人以上が銃剣で突いたが、最初に突いたのが松雄だった。再審でも死刑のままだった松雄は、死刑囚が集められた棟で兄へ手紙を書いていた。まだ28歳。妻と幼い息子が二人いる松雄を死なせるわけにはいかないと、松雄の父は嘆願書の署名集めに奔走していたー。

◆「涙ながらに筆をとり」20日ぶり兄への手紙

藤中松雄の手紙が収蔵されている嘉麻市碓井平和祈念館(福岡県)

死刑執行の前年、松雄は8月30日に兄宛ての手紙を書き、9月13日には、生家の父母宛てに書いた。収監されているスガモプリズン(東京都豊島区)からの手紙の発信は、週に2通と制限されているため、1通は息子に宛て、もう一通は、父母、兄、妻ミツコやその父母に振り分けて書いていたようだ。この手紙は、兄からの便りに故郷で何か大変なことがあったと書いてあり「涙ながらに筆を取った」ようだが、「幸い一同ご無事」で安堵している。松雄の弟、熊市は「古釘を踏んで切開し入院」と前の兄宛ての手紙(8月30日付)に書いていたが、まだ退院もできていないようで、その身を案じている。なお、手紙では、松雄は「松夫」、妻ミツコは「光子」と記している。

<藤中松雄が兄に宛てた手紙 1949年9月20日付>※一部現代風に書き換え
拝啓
兄さん長い間御無沙汰致しましたね。どうか悪しからず。実はこの手紙も孝一(長男)へ書くつもりでいましたが、便り拝読し、涙ながらに筆取らして頂いております。南無阿彌陀佛 もう少しで光子への手紙書き終えんとしている時、西郷の伯父さんからと一緒に(便りを)入手致しました。幸い一同ご無事との事、何よりと喜んでおります。しかし、不幸、熊市(弟)はまだ退院も出来ず、病床に横になって居る由、どんなに淋しい、つらい日を送っているか、心から察する事が出来ます。というものの、見舞いの手紙も出さず、すまなく思っております。今度逢われましたならば、くれぐれも宜しく言って下さい。