対立する主張をナラティブで統合する
わたしは歴史を生業としている人間なので、最後にこの問題について自身の領域でより具体的な説明を試みたい。
現代日本では、イデオロギー的な立場の違いによって社会の分断が進み、相互のコミュニケーションが難しくなっているといわれている。たとえば、保守的な立場のひとびとは日本の過去に肯定的な先入見をもち、逆に左派のひとびとは逆の見方をとることが多い。一般には、こうしたふたつの立場のあいだには深い溝があり、お互いにわかりあえないとされる。
しかし、果たして本当にそうだろうか。
たとえば、保守派が誇りとする歴史的事実のひとつに、1919年、国際連盟設立に際して日本が「人種差別撤廃」を提案したというものがある。世界に先駆けて人種平等を訴えたという点で、これはたしかに評価に値する行動だった。そのいっぽうで左派は、日本も朝鮮や台湾を植民地化しており、他民族を差別的に扱っていたと提案の欺瞞性を批判する。これもまた否定しがたい指摘だろう。
重要なのは、この両者の主張を対立的に配置するのではなく、ナラティブとして健全なかたちで統合するということだ。言い換えれば、過去に掲げられた理想の正しさを認め、それが実践と乖離したという歴史的経緯も正面から受け止めたうえで、現在や未来へと引き継ぐ新たな語りを試みるということである。
一例として、つぎのような語りが考えられる。
日本はかつて人種差別撤廃を訴えた素晴らしい国だった。しかし、その理想に反して誤った行動を取ってしまった。その点は反省しなければならない。だがそれゆえに、現代の日本は本来の姿を取り戻し、その理想を体現する努力をすべきではないか。より具体的には、そのような日本だからこそ、他民族や他国民への差別に徹底的に反対し、国際社会に向けて寛容と共生を呼びかける存在になるべきだ――。
これならば、左右を統合できるナラティブになりうるのではないか。
このような読み替えは、けっして珍奇なものでも独創的なものでもない。人類は古くから、こうした知的営為を繰り返してきた。古代ギリシャの民主制を肯定しつつ、その時代の奴隷制度は批判の対象としてきたように。また、人権宣言や独立宣言の理念を称えながらも、それらが白人男性中心主義に偏っていた点を同時に批判するというように(日本近現代史の読み替えについては、近刊『「あの戦争」は何だったのか』講談社現代新書、2025年に詳述したので、詳しくはそちらを参照されたい)。
冒頭で述べたように、プロパガンダを過度に恐れる必要はない。ただし、それが受け手の先入見と結びついたとき、ときに大きな力を発揮してしまう。では、先入見を取り除けばいいかといえば、そう簡単にはいかない。
だからこそ、われわれはナラティブの力を活用すべきなのだ。それが、プロパガンダがふたたび力を得ようとしている現在、われわれが取りうる現実的な選択肢のひとつなのではないだろうか。
<執筆者略歴>
辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。
政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。
単著に、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『ルポ国威発揚』(中央公論新社)、『防衛省の研究』(朝日新書)、『超空気支配社会』(文春新書)、『大本営発表』(幻冬舎新書)、共著に『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)、監修書に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)、共編書に『文藝春秋が見た戦争と日本人』(文藝春秋)などがある。
【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版のWebマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。