プロパガンダが効果を発揮する受け手側の「先入見」
プロパガンダは、こうした先入見に呼応して効果を発揮する。逆に言えば、発信側がどれだけ巧妙にメッセージを作っても、受け手の価値観や文化的背景にまったく合わなければ、あまり意味をなさない。プロパガンダの力とは、すでに存在している感情や不満に「名前」を与え、それを「正当な怒り」や「誇り」などとして再構成するところにある。
たとえば、アメリカのトランプ現象を見てみよう。そこでは、たしかに過激な言辞や誇張された主張が繰り返された。だが、それが社会的な運動として波及した背景には、白人中間層の間に鬱積していた怒りや将来への不安といった感情がすでに存在していたからだろう。
プロパガンダは、こうした漠然とした感情に言葉を与えることで、一種の政治的「正当性」を与える。逆にいえば、同じ戦術を反対陣営が模倣したとしても、それが受け手の内面と結びつかなければ、有効にはならない。
この構図は、ガザ危機における欧米の対応にも見られる。欧米諸国は、反ユダヤ主義という宿痾の反動で、イスラエル寄りの立場をとりやすく、その姿勢は市民社会にも深く根を下ろしている。そのため、日本では当たり前のようなイスラエル批判が、欧米ではヘイト発言という扱いとなり、それまでの仕事をキャンセルされることにもなりうる。
この状況下で、たとえパレスチナ側からの情報発信が大幅に強化されたとしても、欧米社会の世論が一気に転換するとは考えにくい。
じつはウクライナ戦争でも、その傾向は露呈していた。CBSニュースの特派員が「ウクライナは、イラクやアフガニスタンのように数十年も紛争が続いている場所とは異なり(中略)比較的文明化しており、ヨーロッパのような都市です。今回のようなことが起こるとは予想もできなかった場所です」と発言し、批判を浴びた。別のジャーナリストは、ウクライナのひとびとが「私たちにそっくり」であり、「だからこそ衝撃は大きい」とも率直に述べた(三牧聖子『Z世代のアメリカ』NHK出版新書、2023年)。
なぜアフガニスタンやロヒンギャなどの人道危機に比べて、ウクライナへの支援は(経済的な数字、メディア上の扱いなどを見るだけでも)これほど突出していたのか。そこには、「われわれ(白人・ヨーロッパ・キリスト教)に似た存在が攻撃されている」という感情が作用していた――少なくとも、原因の一部だったことは否定できないだろう。
もっとも、先入見があるからといって、ひとびとが即座に行動に駆り立てられるわけではない。先入見は多くの場合、抑圧され、無意識の層に沈んでいる。そうした感情が表面化し、行動の原動力となるのは、ナラティブとして構造化されたときだ。
ナラティブ、「物語」の持つ力
ナラティブとはようするに物語のことである。それは、ばらばらなファクトに連続性と方向性を与え、それらを語るに値するものへと変換する。ナラティブがあってはじめて、ファクトは共感や行動を生み出す力を持つ。裏を返せば、どれほど正確なファクトを積み重ねても、それがナラティブとして提示されなければ、多くのひとびとの心を動かすことはできない。
しばしば、ナラティブはファクトと対立するもののように語られる。しかし実際には、両者はむしろ補完関係にある。ナラティブなきファクトは脆弱であり、ファクトなきナラティブは空虚である。
なるほど、ナラティブは構築のされかたによっては陰謀論などへと転落する危うさを孕んでいる。だが、そのリスクがあるからこそ、ファクトを基盤とした、より健全で説得力あるナラティブを組み立てる努力が重要になる。
わたし自身、そのような問題意識にもとづいて、これまで歴史と物語の関係について論じてきた(「歴史に「物語」はなぜ必要か」など。『教養としての歴史問題』東洋経済新報社、2020年に収載)。
先入見はその性質上、そう簡単に変化するものではない。だが、ナラティブであれば再構成がしやすい。よりよい物語を提示することによって、先入見の方向性を少しだけずらしたり、揺さぶったりすることができるからである。