1945年7月1日の夜、アメリカ軍の焼夷弾が熊本市内に降り注ぎ、388人が亡くなりました。
熊本市中心部を焼き尽くした、この「熊本大空襲」の数か月前、熊本初とされる空襲で家族を失った女性がいます。80年を経て初めて語る、貴重な証言です。
90歳で初証言
「熊本大空襲」の日に合わせて、毎年7月1日、市民団体が「体験を語り継ぐ集い」を開いています。
2025年に初めて証言に立ったのは、熊本市の津下環さん(90)です。
津下環さん「空襲の時は怖かったばっかりで・・・」

9歳の時に、熊本初の空襲とされる「柿原空襲」で、当時52歳だった祖母と、5歳だったいとこを亡くしました。
サイレンも鳴らず「空襲が来るなんて」
「柿原空襲」があったのは熊本大空襲の7か月前、1944年11月21日の午前中のことです。
津下さん「爆弾が落ちたのはこの辺りだった。この辺りに」

記録では、現在の熊本市西区花園の柿原地区に、アメリカ軍が250キロ爆弾10数発を投下したということです。亡くなった4人のうち2人が、津下さんの祖母といとこでした。
津下さん「空襲が来るなんて思わなかった。ヒュ~って聞こえたので、なんだろうと思って、走って部屋から玄関に出ようとしたら、途中で爆弾が落ちた」
空襲警報のサイレンが鳴ることもなく、突然、家の周りに爆弾が落ちてきたのです。
なんとか米俵の台の下に逃れた津下さん。しかし、祖母は。
津下さん「孫をかばったようにして、かがんでいた」
一緒に暮らしていた8人のうち、祖母といとこの2人が逃げ遅れ、崩れた家の中で命を落としました。