スパイと疑われ…罪のない民間人を大量虐殺

1945年6月26日。アメリカ軍が、イーフビーチから、ついに上陸。その翌日、最初の虐殺が起きる。アメリカ軍に命令され、鹿山の元に降伏勧告状を届けた男性が、その場で銃殺。さらに2日後、あの青年らに虐殺の手が伸びる。その家族、区長や警防団長まで9人が惨殺された。

殺害された区長の従妹、新垣富さんは、現場の光景が忘れられないでいた。

新垣富さん
「(青年たちが)誘拐されて帰ってきた後、兵舎に連絡がなかったと言って、区長も警防団長もスパイって疑われて。責任(負わ)されて殺されて、並べて焼かれていた」

9人は集められ、銃剣で突き殺された上、家もろとも焼き払われた。鹿山隊に所属していた仲原さんは、翌日になって、事件を知らされた。

「私は話を聞いて、呆然として言うべき言葉も知らなかった。鹿山隊長は部下の兵隊10名を武装させ、9名の民間人を縄で縛り上げ正面に立たせ、指揮者の合図によって一斉に殺したとのこと。残忍極まる行為である。同じ日本人が同じ日本人を、私の同じ部隊の兵隊が私と同郷の久米島の人を、しかも何の罪もない、何も知らない民間の人々を大量に虐殺するとは、その罪、永劫に許さるべきものではないと思う」

かつて村長を務めた人物の日記には、翻弄される住民の姿がある。鹿山が「山を下り家に帰る者はアメリカ軍に通じる者として殺害する」と住民を脅迫。一方で、住民は「アメリカ軍から、山を下りなければ日本軍とみなす」と通告されていた。

本永昌健さん
「アメリカたちが上陸してきてからは前門の虎、後門の狼としかみてないですよ」

この時、アメリカ軍はこう見ていた。

米軍久米島上陸部隊本部活動概要より
「軍政府の活動は、少なくとも20%の久米島住民の協力を勝ち得ている」

そんな中、住民が避難する壕を回って、家に戻るよう説得する人物が現れた。

仲村渠明勇さん。沖縄本島で捕虜になっていた仲村渠さんは、アメリカ軍の久米島への艦砲射撃の計画を知り、島の実情を話し、攻撃をやめさせた。それと引き換えに案内役を務めていた。

佐久田直広さんが、その呼びかける言葉を覚えていた。

佐久田直広さん
「アメリカはどうもしないよ、避難する必要ないよ、みんな部落に上がって来ていいよ、と」

甥の上洲智虔さんは、防空壕を掘っていたときに叔父の仲村渠さんに声をかけられた。

上洲智虔さん
「“智あんたね、そんな防空壕を掘る必要ないよ”“日本は負ける可能性があるから、それよりも早く部落に下りて生活したほうがいいんじゃないか”と。あの件だけはいまでも忘れない、声がいま聞こえる気がする」

そんな仲村渠さんへの日本軍の視線は厳しかった。

仲原善助さん手記より
「日本軍の間でもあいつ何とかして殺してやりたいとみんな話していた」

住民からの情報も軍に寄せられていた。

仲原善助さん手記より
「仲村渠はイーフ近くの一軒家に一人でいるから殺してくれとか、いろいろでした」

それを知り仲村渠さんは焦っていたのか、新垣照子さんの祖父のもとに助けを求めに来た。

新垣照子さん
「魚を3匹くらい肩から下げて、『お父さんさい(=お父様)助けてください、助けてぃくみそーれー』と来たんです」

だが、新垣さんの祖父も、スパイと疑われた人を島の外へ逃がしたことで、警察に睨まれていた。

新垣照子さん
「明勇、お前をとっても助けたいけどね、うちの周囲をみてごらん。警察官がこんなだから動けないんだよ」
「これ下げて帰る足取り、覚えてますよ。覚悟して帰ったんじゃないですかね」

その夜、虐殺は3度、実行された。仲村渠明勇さんは、妻・シゲさん、1歳の長男とともに、この場所にあったとされる隠れ家で殺害され、その場で火を放たれた。終戦から3日後のことだった。

新垣照子さん
「魚は食べたかね、食べなかったかね、明勇さんの家族の胸内考えたら泣けますよ」

上洲さんが虐殺の現場を訪れると、焼けた炊事場の跡には...

上洲智虔さん
「まな板と、魚を料理したようなね。炊事した後でなかったかというね」

妻・シゲさんの妹、ツル子さんも現場の惨状を聞いていた。

佐久本ツル子さん
「赤ちゃんだから、誕生後すぐ。名前は明廣だった。片っぽの足を日本刀で切って、火の中に投げたって」
「男、女は骨盤で分かったって。これはシゲだね、これは明勇だねと」

そして、当時の島のある事実を語った。

佐久本ツル子さん
「友軍(=日本軍)と手を取ってやってる人たちがいるから。誰はどこそこにいると言って、すぐわかる」