朝鮮出身の一家7人が次の標的に…

その末に、その日がやってきた。昭和20年8月20日。

次の標的となったのが朝鮮出身の谷川昇さん一家7人だ。当時6歳の上江洲由美子さん。思い出すのは、妻・ウタさんのある会合での姿だ。

上江洲由美子さん
「谷川さんのお母さんが出て行って、『僕は軍人大好きだ』とお遊戯を自分で創作してやっているのをとても覚えている。非常に積極的なところがあるなと印象に残っている」

そんな一家がなぜスパイとみなされたのか。

「久米島の人にとってはよそ者ですよね。和夫さん(谷川さん長男)が熱を出しているので、米軍の近くに行った。卵と交換して薬をもらったという話も聞きましたけど、その辺をずっと近くに歩いているのを誰かに通報されたと思いますけどね」

その日の夕方、本永さんが鹿山隊の姿を見ていた。

本永昌健さん
「田んぼに立っていたら、藁でね、日本刀を包んでよ、兵隊が二人とも。若い青年たち二人にこの人たちの住処はどこかと」

その先を目撃していた男性に、上江洲由美子さんが戦後、話を聞いていた。

上江洲由美子さん
「顔見知りの兵隊から実は谷川を殺害しに行くんだと聞いてるんです。それを追っかけて後ろからついていったらしいんですね。それで谷川さんが友人の家に隠れているのを引き出してきて」

牧志義秀氏証言「沖縄戦 久米島の戦争」より
「2、3人の兵隊が護岸の方へ首に縄をかけて引っ張っていった。僕は殺すところは見なかったが、首を絞めて殺し護岸から突き落としたらしい」

その遺体に取りすがって泣き続ける幼子にも刀は振り下ろされたという。その後、谷川さんの自宅に行くと、ウタさんと子どもたちがいた。ウタさんは、乳飲み子を背負い、長男・和夫さんと溝伝いに逃げたが、ガジュマルの木の下で捕まった。

上江洲由美子さん
「日本刀で後ろからやった、それも自分は目撃したんだと」

ウタさんと背中の乳飲み子、そして和夫さんがここで絶命した。

牧志義秀氏証言「沖縄戦 久米島の戦争」より
「そこから再び谷川さんの家にいった。女の子が2人いて、兵隊が『お父さん、お母さんのところに連れて行ってやるから』と連れ出し...」

その後、二人の女の子は遺体となって、雑木林に捨てられていた。

上江洲由美子さん
「コモで覆われた二人の4本の足が見えたと姉は、それは見ましたと。一番最初に目撃したのはうちの隣のおばさんでしたけど、自分の子供ができて昼寝しているときに毛布から足が出ているのを見ると、この光景を思い出して、思わず足を覆ってしまうと」

長男の和夫さんは、上江洲教昭さんの大の親友だった。

上江洲教昭さん
「一緒に毎日、もうほとんど毎日遊んでいましたね。体が小さくて、小さい者同士で友達になって」

その日の衝撃はいまも忘れていない。

上江洲教昭さん
「泣きましたよ、和夫は友達だから。殺されたということを聞いてね。親父がもう、そんなに道で泣いたりするなよと」
「谷川一家をやるときには、久米島の人が加担しているのは間違いないです」

ただ、一つだけ救いがあるという。

上江洲教昭さん
「島人としてほっとしているのは、鹿山が谷川一家を殺すという噂を聞いて、これを谷川に告げに行ったこと。この行為は非常に勇気がいる。鹿山に知られたら殺されるからね。頭でものを考えないで、ちむ(=心)で物思いして飛び出していった。そこらへんはよかったなと。ただ、久米島の人も加担したことは、いつまでも恥だと思っています。和夫が殺されたという恨みもある…個人的には絶対に許しませんよ」

スパイ容疑をかけられた住民はさらに増えていた。6歳の上江洲由美子さんの一家もアメリカ軍との接触を理由に、殺害リストに挙げられていた。次の虐殺は9月9日に計画されていたという。

だが、その2日前。鹿山は武装解除に応じ、降伏。久米島の戦争は終わった。

密告者の存在があり、被害と加害が微妙に絡み合ったことで、久米島では事件を語ることが長く避けられてきた。しかし、沈黙は破られる。事件は、27年経って、沖縄が日本に復帰する直前、明るみに出た。

その報道からおよそ2週間。鹿山と事件の遺族や関係者がテレビ番組で相まみえることになった。

TBSテレビ・RBCテレビ「モーニングジャンボ」より(1972年4月4日放送)
鹿山元兵曹長

「国民が全部、銃は持たないけれども兵隊と同じであるという信念のもとに、敵に好意を寄せる者には断固たる処置を取ったという信念のもとで、これを処刑したわけであります」

遺族や関係者
「なんで、谷川さん一家なんか、小さい子ども『怖いよ、助けてください』とあんなに泣き叫ぶ子供たちまで犠牲にしたんでしょうか」
「謝罪するかと思えば、なんだお前の言い方、なんだこれは。今の沖縄の自衛隊も来たら、ああいう日本の軍隊、お前みたいなことせんかと思ってみな反対しておるんだ」

鹿山元兵曹長
「軍隊として軍人として取った処置に対する責任は、指揮官として全部負いたいということが、報道では不遜な態度、平然たる態度と伝えられておりますけども、私の軍人として信念は変わりませんけれども」