しかし、その後戦況は悪化の一途をたどり、特攻隊が編成されました。
県によりますと、太平洋戦争では知覧や鹿屋など、県内の基地からおよそ2600人が出撃しました。

松井一等兵曹の出撃が決まると、父親は福岡からひとり出水基地に別れの面会に行ったといいます。
(松井靖之さん)「よく頑張ったとか励ましの言葉をかけた、やっぱり悲しい気持ちはあったと思う。情けないことを口に出して言ったら反戦思想家と言われるから内心を取り繕って話していた」
出水特攻基地から飛び立った松井一等兵曹はフィリピンを経由し、昭和19年12月4日パラオ諸島の敵空母群へ突撃しました。
(松井靖之さん)「(最後に兄から届いた)別れの手紙は涙でにじんでいた。戦争に行くのが正しいことではないし、仲良く暮せることが一番だということを認識した。平和という言葉を噛み締めないといけない」
