歴史が近づいてくるフィールドワーク

この後、フィールドワークは福岡城に向かいます。今は平和台陸上競技場などがある舞鶴公園になっています。それから旧福岡地裁・高裁があったあたりまでを軍部が使っていました。福岡連隊と、レーダーで中四国・九州地方のレーダー情報から防空業務にあたる西部軍の司令部がありました。簀子地区に被害が集中したのは、すぐ南に日本の陸軍施設が集まっていたのが理由です。
舞鶴公園は今、本当に平和な、家族連れが楽しんでいる場所ですが、例えば兵舎があった横にきれいな石垣があります。「よく、石垣の下の方を見てください」と江浜さんが指差しました。高熱で傷んでしまってひび割れている花こう岩が、いくつもあるんです。福岡大空襲で炎上し、高熱で石垣が焼けて変性してしまったためでした。

一段高い本丸跡には、陸軍の衛戍(えいじゅ)病院があったそうです。けがをして帰ってきた兵隊が治療を受けていました。戦後、陸軍はなくなりますが、国の病院として移転したのが、みずほPayPayドームの横にある国立病院機構九州医療センターだそうです。説明を聞くと、歴史がすごく近づいてくる感じがしました。
追い詰められた日本軍の蛮行
そして江浜さんは、舞鶴公園から旧福岡第一高等女学校の跡地を見下ろす場所に行きました。
江浜明徳さん:ここは、実は悲劇の場所です。福岡大空襲があった次の日、ここに引きずり出された米軍捕虜8名のうち4名を、1人の青年将校が報復のために日本刀で斬首しています。西部軍に囚われていたほかの米軍兵士は、どうなったか。一部は、皆さんよくご存知の九州大学医学部の生体実験に回され、長崎原爆投下後にはまた報復として油山葬祭場の裏山で殺害された。そして、こともあろうか、終戦が天皇の詔があった8月15日に、油山葬祭場の裏山に連れていかれて、全員が口封じのために殺されております。
江浜明徳さん:本当に日本軍が行った行為というのは……。戦争を取り扱うマニュアルにも全く関係ない「報復」という形で米軍を処刑して、そして「広島・長崎の原爆で爆死した」と嘘をついて、ごまかそうとしたわけなんです。後で戦犯で捕まった人が多かったわけですが、死刑を宣告された人もいました。やはり、軍隊というのは責任を取らないもんだ、と。敗戦したって責任を取らない。本当に殺された捕虜は、無念だったと思いますね。
西部軍で殺害された米軍捕虜は約40人と言われます。国際法で捕虜を虐待してはならないとなっている中で、末期の日本軍がいかに常軌を逸していたかという逸話が、ここに残っています。本当に戦争が人を狂わせる例だと思いました。江浜さんも74歳で「長時間のガイドはこれで最後にする」と話していました。参加者には「今日聞いたお話を自分たちで語り継ぎたい」と話す人もいました。
◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。学生時代は日本史学を専攻(社会思想史、ファシズム史など)。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部勤務を経てRKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種サブスクで視聴可能。5月末放送のラジオドキュメンタリー『家族になろう~「子どもの村福岡」の暮らし~』は、ポッドキャストで公開中。