
太平洋戦争末期に編成された芙蓉部隊。指揮官は当時29歳の美濃部正少佐でした。戦局が悪化していた昭和20年2月に開かれた連合艦隊司令部の作戦会議で、美濃部少佐は公然と特攻に異議を唱えたとされています。
(桂竹丸さん・講演)「その中で美濃部は立ち上がります。特攻機ではアメリカには勝てません。バッタバッタと撃ち落されるだけです、と言います。当時、上官に逆らうだけでどれだけ極刑があったか、皆さんも想像つくでしょう」

(桂竹丸さん)「特攻隊ってみんな死んでいったんじゃなかったのか、それから興味が湧いた」
「自分の生まれたところぐらいはある程度知っててほしい。郷土のおかげで自分が誕生しているのに全く知らないというのは、そこに愛おしさとか慈しみって生まれないんじゃないかと思う」

芙蓉部隊は昭和20年5月から終戦までの3か月間、曽於市にあった岩川飛行場から沖縄方面に出撃しました。
美濃部少佐は、隊員の命を犠牲にする特攻ではなく、合理的な戦術として夜間攻撃を主張。暗くなってから沖縄方面に飛び立ってアメリカ軍を攻撃し、朝方に岩川基地に戻ってくる作戦を実行しました。