学問弾圧の歴史「津田事件」…著書を発禁・起訴も

終戦から4年後の1949年、学術会議は作られた。

学問の自由を標榜するのは、戦前・戦中、学問が弾圧を受けたからだ。その歴史を語り継ぐ場所がある。岐阜県美濃加茂市にある、下米田小学校を訪ねた。

山本恵里伽キャスター
「銅像はどなたですか?」

下米田小学校児童
「津田左右吉博士です、この学校の大先輩」

歴史学者で早稲田大学教授だった、津田左右吉。校長室には、津田が研究に使っていた書籍などが保管されていた。

山本恵里伽キャスター
「源氏物語、平家物語、土佐日記とか」

下米田小学校 安藤由美子校長
「蔵書を生前から寄贈していただいて、津田文庫として残っている」

津田は太平洋戦争直前、政府による弾圧を受けた。
当時、発禁となった津田の著書が美濃加茂市の博物館で保管されている。

美濃加茂市民ミュージアム 和歌由花 学芸員
「古事記・日本書紀など、上代(飛鳥〜奈良時代)の歴史を批判的に読み解いて、研究として、論じていくことを津田はやっていた。天皇の尊厳を冒涜すると罪に問われた本」

津田は古事記や日本書紀などを批判的に研究。歴代天皇の実在性に疑問を呈した。しかし、この研究が国家主義者から攻撃に晒されることになる。

「津田左右吉氏の大逆思想」「極悪の不敬行為」

津田の著書は、皇室の尊厳を冒涜する反逆思想として起訴された。いわゆる津田事件だ。

大正時代に発表された研究が、あとになってなぜ弾圧されたのか。東京大学の品田悦一名誉教授はこう語る。

東京大学 品田悦一 名誉教授
「(津田事件は)西暦でいうと1940年、神武天皇即位2600年目ということで、国を挙げて大きなお祭りをする、国威を発揚するときに、津田は神武天皇はいなかったと本にして出しているから、国にとっては都合が悪い。弾圧されたはっきりした理由だろう。邪魔なものは排除していいということがまかり通る時代になって、悪い前例が残ったということ」