TBSテレビに眠っていた25万枚におよぶ美術関連写真(セット記録用と参考資料用)。昨年、デジタルアーカイブ化の作業が終わり、その一部が現在「TBS赤坂BLITZスタジオ」で一般公開されている。これにあわせ、TBSの元ドラマプロデューサー・市川哲夫氏とTBSテレビ・デザインセンター長の永田周太郎氏がリレー形式でこの“25万枚”の意義を読み解く。
TBS草創期の差別化戦略は「ドラマ重視」
TBSテレビは今年4月1日、開局70年を迎えた。昭和30年、NHK、NTVに続く3局目の開局だった。当時の社名は「ラジオ東京」だったので、「ラジオ東京テレビ」(KRテレビ)が局名となった。
スポーツ、プロレスなどで先行していた2局に対抗して、KRテレビ(TBS)が番組の柱にすえたのは「ドラマ」だった。
開局後、すぐに人気ドラマとなったのが『日真名氏飛び出す』である。冒頭の写真(昭和32年)は、そのドラマのスタジオセットを記録したもので、カメラマン/探偵 の日真名真介(久松保夫)と助手の泡手大作(高原駿雄)の姿もみえる。
『日真名氏』は7年(1955年~1962年)続いたが、草創期に回を重ねるごとに演出、技術、美術がそれぞれに「進化」を遂げていったのである。1956年の経済白書は「もはや、戦後ではない」と謳い上げたが、正に「高度成長」前夜の時世となっていた。
人気漫画でラジオ東京の連続ドラマとなって少年少女を虜にした『赤胴鈴之助』。ラジオドラマの成功を受けて、1957年10月から1959年3月まで毎週水曜の連続ドラマ(30分枠)として放送された。ラジオにも出演していた吉永小百合がテレビでデビューし、女優として歩み始めた。当時12歳の姿が写真にあり、昨年、吉永さん本人が確認。TBSHDから広報発表され、ニュースとなった。

開局3年目の1957年には、『サザエさん』(1955年~1957年。5分の帯ドラマ)、『おトラさん』(1956年~1959年。30分週一連続ドラマ)といった新聞漫画原作の人気ドラマが『日真名氏』に続きブラウン管を賑わしていた。
より本格的ドラマ枠としては『東芝日曜劇場』(1956年12月スタート)が定着しつつあった。『日曜劇場』は一話読み切りの生放送なので、毎回美術セットは、新たなチャレンジの連続だった。美術のスタジオセット面でも、『日曜劇場』はTBSドラマの礎となったのである。

「ドラマのTBS」の確立
そして翌1958年(昭和33年)、「ドラマのTBS」との声価を決定付ける二つのドラマが生まれる。芸術祭賞受賞作『私は貝になりたい』と芸術祭優秀賞受賞作『マンモスタワー』がそれである。
『私は貝になりたい』は、BC級戦犯として処刑される名もなき理髪店主の戦中・戦後の悲劇を描いた反戦ドラマ。セットデザイナー坂上建司の仕事が光る。

又、『マンモスタワー』は、映画界とテレビ局とのメディアウォーズの始まりを描いた予見的作品だが、テレビ局の一室の窓外に巨大なテレビ塔の塔脚が写真パネルとしてセットされ、印象的である。

『私は貝になりたい』を当時入社二年目の演出部員だった大山勝美は、職場のテレビで観ていた。大山は後年こう書いている。
「見終わったとき、感動した私は椅子から動けなかった。まわりの演出部員もみんなそうだった。反響の大きさに『貝になりたい』は社会的事件になった。・・・『ドラマのTBS』の評価は一気に定着するのである」(大山勝美著『私説放送史』)