敗戦の年、米軍機搭乗員を殺害したとしてBC級戦犯に問われ、死刑囚としてスガモプリズンに収監されていた藤中松雄。スガモプリズン最後の処刑となった1950年4月7日に28歳で命を絶たれた松雄には、妻と幼い息子二人、父や母、兄弟姉妹と多くの親族がいた。死刑執行の前年、松雄が送った手紙には、桜の季節に兄からの手紙に同封されていた花びらを見て「来年からは花を見る事は出来ないでしょう」と綴られていたー。

◆丁寧な文字が並ぶ直筆の手紙

藤中松雄のふるさと 福岡県嘉麻市

福岡県嘉麻市にある碓井平和祈念館。ここには藤中家から寄贈された藤中松雄の遺書や手紙が収蔵されている。藤中松雄直筆の手紙は白い半紙に包まれ、収蔵庫に丁寧に保管されていた。

19歳で藤中家に婿入りした松雄が、生家の実父母や兄に宛てたものと妻、ミツコや長男に宛てたものがあった。

一番古い日付は、1949年4月25日。死刑執行の1年前、実父に宛てたものだ。なお、戸籍名は「松雄」だが、手紙では「松夫」と署名している。

◆来年からは花を見ることは出来ない

嘉麻市碓井平和祈念館(福岡県)

<藤中松雄の手紙 1949年4月25日>※一部、現代仮名遣いに書き換え
拝啓
お父さん、長らくご無沙汰致しましたね。出そう出そうと思いながら・・・
愚かな我儘何卒御許し下さい。
今日あたりの暖かさは本当に春を思わせますね。今運動から帰って筆を取りました。おてんとうさまの下はやっぱりいい気持ちです。今日は屋外の広い運動場で約二十分程、散歩しました。十四日発信の静夫兄さんからの便り、二十二日読みました。父母上様やみんなもお元気との事、よろこびに堪えません。懐かしい縁先の桜花も同封してありました。大切にしまっております。昼食の時、テエブル(フトン)の上に置き、静かに眺めながら食事しました。これが最後の花見かと思うと感慨無量にならざるを得ませんでした。もう来年からは花を見る事は出来ないでしょう。
昨年の春は美佐江がやはり桜花を送ってくれました。でもこれからは受取る人はいないでしょう。トンチンカンな事ばかり書いて。

◆母さんは話も聞かず涙ぐんで

法廷での藤中松雄(米国立公文書館所蔵)

藤中松雄がスガモプリズンに収監されたのは、1947年7月2日。この手紙を書いた時点では1年10ヶ月が経過している。

この間に自分が関わった石垣島事件の裁判が横浜で開かれ、松雄は死刑の宣告を受けた。死刑囚になってから1年あまり。1回目の再審でも死刑は変わらなかった。

<藤中松雄の手紙 1949年4月25日>
お父さん、面会有難う御座居ました。まさか民雄(弟)が来ようとは意想外でしたね。厚くお礼申上げます。私の事も民雄からよくお聴きなさった事と思いますので、詳しくは書きません。併し御心配には及びません。相変らず元気に暮らして居ります故、兄の便りに「母さんは話しもきかずにもう涙ぐんで居たと」
父や母の事を思うと鉛筆握りたる手に思わずグッと力が入ります。お父さんや母の事思えば、もう書けなくなります。故、書きません。でも松夫の気持ちだけは察して下さいね。父母の御高思は決して忘れるものではありません。やがて昼飯になりますので暫らく筆を置きます・・・