医師から厳しい宣告も…一命は取り留めた女性

一方で、事故の記憶と今も向き合う女性もいる。

107人が亡くなったこの事故で108人目の死亡者になるのでは、と言われてきた鈴木順子さん(当時30歳)。

設計やデザインの資格を取るため、講習を受けようと大阪に向かっていた。2両目に乗っていた順子さんは、562人の負傷者の中で最も重症のひとりと言われてきた。見つかったのは事故から約5時間後。意識はなく、年齢も性別もわからなかった。

搬送する直前、呼吸が止まった。医師はすぐ人工呼吸を行った。順子さんは全身を強く打ち、脳に致命的なダメージを受けていた。

医師は、家族に厳しい宣告をする。

大阪市立総合医療センター 林下浩士 医師 (2006年の取材より)
「お弁当箱の中に豆腐を入れて振ったような、豆腐はぐちゃぐちゃになっている。そういう衝撃の加わったCT。もしかしたらという曖昧な言葉は使わなかった。たとえ良くなったとしても意識は戻らないと伝えた」

何とか一命は取り留めた順子さんに意識を取り戻してもらうため、家族はあらゆる刺激を与え続けた。

姉・敦子さん
「何か思い出すかなと思って、香水を頭に巻く三角巾に振っていったり、ディスクで音楽を聴ける物を買ったり、童謡を聴かせたりした。泣いて順ちゃん順ちゃんと呼びかけてもしんどいだろうから」

5か月後、奇跡ともいえる出来事が起きる。順子さんが言葉を発した。それは「おかあさん」の一言だった。

その後、順子さんは自宅からほど近い兵庫県西宮市の病院に移った。

時折笑顔は見せるものの、会話を交わせるほどではなく、母親のもも子さんは回復を喜ぶ一方で順子さんが発するある言葉に胸を痛めた。

母・もも子さん(当時57)
「時々声が出る時はなんでーと言う。なんでーって。なんで自分がここにいるのか、なんでこうなったのか、あの子の中では理解できていない」

家族の願いは“元の元気な姿に戻ること”。大きな転機になったのはプールでのリハビリ。

立ち上がって歩く感覚を思い出してもらうためだった。母娘でプールに入るスキンシップは互いの心を癒しあった。

気がかりだったのは食事をしないこと。事故直後、口の中がガラス片で埋まっていた順子さんは、生きるために飲み込まないようにしていたのか、物を食べる事を頑なに拒否していた。

ところが、事故から11か月後、退院して1週間後。

順子さんが初めてプリンを口にした。少しずつ食事を摂るようになり、笑顔も増えていった。