兵庫県尼崎市で起きたJR福知山線の脱線事故から20年、事故の風化を危惧する遺族もいます。107人が死亡したこの事故で、瀕死の重傷から回復後も、記憶障害という後遺症に向き合い続けてきた女性の20年です。
「“風化”以外の何物でもない」二男失くした父親の意思を三男へ

2005年4月25日午前9時18分。兵庫県尼崎市でJR福知山線の快速電車が脱線し、マンションに激突、運転士1人と乗客106人が死亡した。
スピードを出しすぎ、カーブを曲がり切れなかった電車。犠牲者も負傷者も1両目と2両目の乗客に集中した。
小杉繁さん(当時57)と靖子さん(当時59)は1両目に乗っていた。遺体が見つかったのは事故の翌朝。告別式では息子の謙太郎さん(当時21)が喪主を務めた。

小杉謙太郎さん(当時21)
「父親が母親を上から守るように、覆いかぶさるように両親が見つかったと聞いて、父親が最期に夫として妻を守りきった」
事故から20年、謙太郎さんは41歳になった。
今も覚えているのは、遺体の確認の時に立ち会った警察官が声を震わせながら「がんばれ」と肩を叩いてくれたこと。
大学生だった自分を、周りの大人が必死に守ってくれていたと当時を振り返る。

小杉謙太郎さん(41)
「いろんな大変なことがあの時もあったんだろうけど、皆さんがカバーしてくれて、しんどくならないようにやってもらっていたんだなと、大人になればなるほどありがたかったな、と思う」

長男・咲太郎くん(9) 二男・春太郎くん(7)
「パパはじーじに似ている」
「めちゃくちゃ似てる」
謙太郎さんは今、2人の男の子の父親だ。一人っ子だった謙太郎さんは痛烈に思う。賑やかな孫たちの姿を両親に見せたかった、と。
小杉謙太郎さん
「(両親が生きていたら)かわいがってくれるだろうな、と。父親がどんな顔をするのか見てみたい。母親は手放しで喜ぶと思うけど」
神戸市に住む上田弘志さん(69)と篤史さん(35)親子。二男の昌毅さん(当時18)が2両目に乗っていて亡くなった。

上田弘志さん(69)
「あの顔からもう20年経ってる。もうすぐ40歳やで」
上田さんは、JR西日本の社員と非公式の意見交換会を行ってきた。今も年間60人ほどの社員と話をするが、気になることがあった。

上田弘志さん
「会社は(事故のことを)伝えていくと言いながら、実際はほとんど伝えていない。亡くなった人数もわからないという人(JR社員)もいた。それは“風化”以外の何物でもない」
JR西日本は新入社員研修などで事故のことを伝えているが、十分ではないと上田さんは話す。
7年前に完成した慰霊碑のすぐ近くに事故車両を置いて、JRの社員は事故の現実を知っておくべきだと訴えてきた。
69歳になった弘志さんは体調を崩しがちだ。父親の意思は、昌毅さんの弟で三男の篤史さんが受け継ぐ覚悟だ。

三男・篤史さん(35)
「事故のことを知らないJRの社員の人たちに僕の実際の声を伝えて、安全をないがしろにしてはいけないんだと伝えていきたいと思う」