自己新を出せなかった実業団入り後の2年間

山本が22年10月の国体で出した15分16秒71の自己記録は、27年ぶりの日本人学生最高記録である。積水化学入社後は23年のブダペスト世界陸上、24年のパリ五輪と代表入りしたが、記録的には15分30秒を切ることができていなかった。「正直に言わせてもらうと、たまたま出られたと思っていて。調子が悪い選手がいて繰り上がったり、日本選手権時点で私がポイントを持っていたりしたから、ワールドランキングのポイントでもメンタル的な部分でも有利な状況にいて、運が回って来たと思っています」

自身のセカンド記録、サード記録も名城大4年時の22年に出していた。「国体の時は“出ちゃった”という気持ちが大きかった。でも国体の走りの感覚がすごく良くて、その感覚の再現を目指して走っていましたが、2年間一向に、その走りができませんでした」

しかし前述のように2年続けて代表入りもしたし、クイーンズ駅伝2区の区間賞も連続で獲得した。野口英盛監督(45)は「記録は(気象コンディションや対戦相手、レース展開など)条件がそろって出るもの」と言い、入社後の山本も「私の中では成長していた」と感じていた。

運が良かったところは確かにあった。しかしポイントを積み重ねるために、シーズンオフの2月に開催されるアジア室内3000mに、23年(3位)、24年(優勝)と出場。目の前にチャンスが来たときにつかみ取ることができたのは、そのための準備をしっかりとしていたからだ。

謙虚な考え方を続けることで、山本は努力をし続けることができたのかもしれない。「(22年の)国体では愛知県のために点数を取ることを考えていましたが、世界を目指していたわけではなくて、記録はただ出たって感じでした。今回は、世界で戦いたいだったり、自己記録を出したいだったり、色んな気持ちがありましたが、世界を見据えて練習ができての結果ということが大きいと思っています。自分の世界に入って走ることができて、前回の自己ベストの時と同じ感覚があったので、まだまだ自分のピークこれからだな、という気持ちで頑張れます」

世界に向かう山本の気持ちが、金栗記念の走りで一段レベルが上がったようだ。