1950年4月7日午前0時半。スガモプリズン最後の死刑が執行された。米軍機搭乗員3人を殺害した石垣島事件で最終的に死刑が確定した7人だ。この中には、命令に従って米兵を銃剣で刺した成迫忠邦と藤中松雄、20代の下士官二人が含まれていた。しばらく死刑の執行がなく、もう死刑はないのではないかという憶測すら広がる中での一挙7人の死刑執行。その最期を見届けた教誨師が成迫のエピソードを遺していたー。
◆死刑宣告で慰めの言葉も知らず

スガモプリズンの二代目教誨師として死刑囚たちを見送った田嶋隆純。死刑執行の流れは、死刑囚が集められた五棟から該当する死刑囚たちが連れ出されるところから始まる。スガモプリズンの所長を初め、将校が居並ぶ部屋で死刑執行の宣告を一人ずつ受け、各人が死刑までを過ごす部屋へ移される。田嶋教誨師はすぐにその部屋を訪ねた。死刑囚の棟では部屋に二人が寝泊まりしていたが、ここは一人だ。田嶋教誨師は、
<わがいのち果てる日に 田嶋隆純1953年>講談社エディトリアルより2021年復刊
こちらは慰めの言葉も知らぬ有様であるが、皆とても元気で、その晩は十二時、一時頃までも会談するを例とした。
執行は次の日の深夜、日付が変わってすぐなので、ここから丸一日が残されていることになる。死刑執行が決まっても、本人たちはいつもと変わらない様子で過ごしていた。
死刑囚たちは、部屋に入るとすぐ真っ裸にされ、衣類を全部着替えさせられた。着替えに与えられるのは、どうせ棺と共に捨てるからとの考えからか、廃品にも等しいものだったという。「こんなボロが着られるか」と米兵をなじる人もいて、係将校が「これはここの規則だから、どうか我慢してくれ」とあやまるように言っていたこともあるという。
◆執行前 仏間での最期の時間

一夜を明かして処刑当日、田嶋教誨師は午前、午後にわたって何回も死刑囚の部屋を訪ね、お話をするという。
そして死刑が執行される直前、午前0時近くなると、死刑囚たちは集められ、教誨師と仏間で過ごす最期の時間がとられた。お勤めにかかる時間は約20分だったという。
<わがいのち果てる日に 田嶋隆純>
やがて手錠にいましめられた人達がドタ靴をバタバタ床に鳴らしながら、衛兵に付き添われて仏間に入ってくる。この際、米兵四、五人だけ仏間の入り口付近で中に立つだけである。仏間としては、先の宣告場の中にある六畳ほど副室が充てられていた。正面に置かれた仏様は、第五棟(注・死刑囚の棟)の一階で拝みなれた阿弥陀如来で、厨子のまま移されたものである。まず塗香(ずこう)を手に塗り身体を清めた後、私が先頭でお勤めをするが、本人の宗旨によって般若心経(はんにゃしんぎょう)、重誓偈(じゅうせいげ)、阿弥名号等その場合場合に応じてお勤めをした。
その後で、お供物の葡萄酒とビスケットを薦めるのだが、皆喜んで手錠の手を差し出し、片手にコップを握る。しかし、この葡萄酒は人数の多少にかかわらず一本きりしかないので、多いときには分配に気を配る要があった。コップはいつも二個、その一個は私の分として置かれてあって、一度皆さんからどうしてもと薦められ、私も苦しみを逃れたくわずかに口にしたことがあったが、元来良い葡萄酒であったせいか、いつも皆気持ちよく酔いが回っていたようである。