米兵捕虜を殺害した石垣島事件でBC級戦犯となり、26歳にしてスガモプリズンの絞首台に上った成迫忠邦上等兵曹。成迫は、生涯最後の日の午前中、兄の妻である義姉へ遺書を書いている。日本大学に進学したものの学徒出陣で1年しか通うことができなかった成迫は、農家の長男である兄と結婚した義姉が中学教員になることに感銘し、励ましの言葉を贈っている。死刑囚の棟で仏教の信仰を深めていた成迫が姉に説いた人生の目的は「愛の実践」だったー。

◆人生最後の日 義姉に宛てた遺書

BC級戦犯として死刑になった成迫忠邦(米国立公文書館所蔵)

1953年に巣鴨遺書編纂会が刊行した「世紀の遺書」には、スガモプリズンだけでなくアジア太平洋で命を絶たれた、合わせて701人分の遺書や遺稿が掲載された。長い遺書の場合は、「なるべく最期に近いものの中より遺志の最も明確な部分を選ぶ」(「世紀の遺書」編集後記より)という方針で編集されているが、成迫の場合は、母に宛てたものと兄の妻、つまり義理の姉に宛てたものの二通が選ばれている。義姉に宛てた遺書の日付は、その夜に死刑が執行された1950年4月6日だ。

<成迫忠邦の遺書>「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会1953年)
成迫○宛
姉さん、姉さんに対する弟からの手紙もいよいよこれが最後のものになりました。かえりみれば姉さんとの御縁は短いものでしたが、今になってみればあの時程私の修養になったことはありません。姉さんもきっと私と同じように思っていることでしょう。人間と生れて苦悩を本当に知らない人は進歩の少ない、愚かな人と云わねばなりません。

私が巣鴨に拘禁されて一番嬉しかったことと云えば、姉さんから初めてお手紙を戴いた時でした。それから連続的に次々と来る手紙毎に、姉さんの信仰生活に精進される姿がはっきり判ってきました。その手紙に「忠邦さんのみ仏の教えによって云々」とありましたが、私はこれを読んで実に勿体なく思われ、私の如き鈍才の手紙によって信仰生活に入られるなどと思う時、本当に恥かしい気持ちが致しました。

でも内心「よく信仰生活に入って下さいました」と安堵の胸を撫で下したことは否定出来ません。それと云うのも、人は常に幸福を追求して朝に夕に死にもの狂いで働いて居るのが人間の姿ですが、こんな人には如何にあせっても終生幸福は訪れるものではなく、姉さんの如く信仰生活に入られた方には極めて簡単に、容易に幸福を把握することが出来るのであります。


スガモプリズンに囚われてから、信仰の道に深く入っていった成迫。成迫を心配する家族にも信仰についての手紙を送っていたようだ。

◆中学の教員になった義姉

世紀の遺書(巣鴨遺書編纂会 1953年)

成迫の遺書によると、義姉は農家の長男である兄と結婚しているが、「この春から中学の教員になれる」と成迫に報告し、了解を求めている。男性教師が戦争に動員されたため、女性教師の割合は日中戦争から太平洋戦争中に急激に増えた。「学制八十年史」(文部省1954年)の統計によれば、日中戦争が始まる前の1935年には、小学校の教員25万7691人のうち、女性教員は8万732人(31%)だった。これが5年後の1940年には40%になり、さらに敗戦の年の1945年には、31万281人のうち、女性が半数を超え、16万8403人(54%)となっている。成迫が遺書を書いている1950年は49%が女性だ。

成迫の義姉は、「中学の教員」になるのだが、敗戦後、GHQの下での学校制度改革で、国民の教育を受ける権利を均等に拡大するため、中学校3年までが義務教育となった。1947年から新制となった中学の教員は、17万6660人のうち、女性は4万26人(23%)で、教員充足率は81%。(文部科学省学制百年史)かなりの教員不足な上、必要な免許状を持たない者の比率も極めて高かったという。3年後の1950年には教員数は19万2397人に増えたが、女性の割合は24%の4万5687人だった。そうした状況の中、義姉は中学の教員となった。