報道協定の誕生

雅樹ちゃん事件をきっかけに、報道のあり方について大きな見直しが求められました。特に、誘拐事件においては、過度な報道が捜査に悪影響を及ぼすことが明らかになったため、警察と報道機関の間で「報道協定」が作られることになりました。これは警察と報道機関が協力し、一定の情報を、一定期間、自主的に報道しないことを約束する仕組みです。これによりマスメディア各社は、身代金誘拐事件などの場合「協定解除」まで、事件の報道を控えるようになりました。

雅樹ちゃんは雨の降りしきる中、東京の自宅に無言の帰宅となりました。その後、本山被告は1967(昭和42)年に死刑が確定し、1970(昭和45)年に執行されました。

報道のあり方を見直す契機

雅樹ちゃん事件以降、日本では報道協定が徐々に定着し、実際に多くの誘拐事件で適用されるようになりました。この「アーカイブ秘録」でもとりあげた1963年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、報道協定が発効した第1号です。事件は悲劇的な結末に終わりましたが、報道協定は犯人の逮捕と事件の解決に貢献したと評価されています。

時代は新聞ラジオの時代から、白黒テレビ、カラーテレビへと移り、現代はネットメディアが席巻しています。

しかし、一方で、時代が進むにつれて、報道協定の意義や適用範囲が再議論されるようになりました。特に、ネットなどによりリアルタイムで情報が拡散される現代において、どのように報道の自由と捜査の円滑化を両立させるかは、今後の大きな課題となっています。