「大地動乱の時代」に生きている私たち

『大地動乱の時代地震学者は警告する』(石橋克彦著、1994年)という岩波新書があります。30年以上前に、「日本は”大地動乱の時代”に入った」と地震の専門家が書いた本で、いまだに書店に並んでいます。若い頃に読んで、非常にわかりやすく、衝撃を受けました。戦後は巨大地震が起こらない”地学的平和”の時代だったから、日本は経済成長し、復興できたのだ、と。単発的には福井地震(1948年)とか新潟地震(1964年)とか、地震が起きています。局地的な被害は大きいけれど、日本全国に被害を及ぼす巨大地震は起きていなかったことが、経済成長や平和をもたらしました。これを”地学的平和”と呼んでいました。

それが終わり、これから”大地動乱の時代”に入る、と予告していました。翌95年に、阪神・淡路大震災が起きました。それから、東日本大震災が2011年に起きます。間隔が空いたように思われますが、先述したとおり地学的にはあまり変わりません。私たちは今”大地動乱”時代の真っ只中に生きています。だから、「平常時と比べて相対的に高まったわけではない」かもしれないけれども、いつ南海トラフで巨大地震が発生してもおかしくありません。そういった意味だということです。

阪神・淡路大震災の現場で

阪神・淡路大震災から、1月17日で30年。私は当時28歳でしたが、鮮明に覚えています。

新聞社に入って雲仙・普賢岳災害に遭遇して、25~28歳の3年間は現地に住み込みました。被災者とともに暮らすのが日常でした。1995年に、阪神・淡路大震災が起きて、ヘリコプターから撮影した、燃えている神戸の街並みの映像を見て、「この下でどんなことが起きているのか」と、災害報道に携わっていただけに心が震えるような感じになりました。

最初に土地勘のある記者が現地に入って、2週間ほどして私たち第2陣が取材に入りました。「あなたは被災者の避難生活を知っているから、その現場を見た人間がこの被災地をどういうふうに見るか、ルポを書いて記事にしてほしい」と指示されました。

阪神電車もまだ神戸市東灘区で止まっていました。市中心部の三宮駅(中央区)まで普段は20分くらいで行けるんですが、青木(おおぎ)駅から1時間半くらいかけて歩かなければならない状態でした。青木駅から北に10分くらい歩いたところにあったのが、神戸市立福池小学校でした。1月末当時、約800人の被災者が学校にいました。壊れた家の柱や板を燃やして、暖を取っていました。地震発生から2週間経っているのですが、まだそういう状況でした。学校には一番多い時、1900~2000人いたそうです。

小学校は「まるで野戦病院」

福池小学校の先生には大変お世話になりました。上田美佐子教頭が話をしてくれました。

・学校は3日間、孤立状態だった。

・教員30人のうち、若い女性教師1人が亡くなった。自宅が全半壊した教員は9人。生徒は3人、保護者1人が犠牲になった。

・けが人は続々運び込まれてきた。遺体は理科室の机の上に安置したが、次々に運ばれてきて、生活科の教室にも安置した。学校まで着いて亡くなる人、保健室で息絶えた人もあり、19人の遺体が安置された。

・「生き埋めの人を救い出す道具を貸してほしい」と近所の人が押しかけてきた。あるだけの道具を渡したが、中には図工室のガラスを割ってのこぎりを持ち出す人もあった。切羽詰まった様子を見ると、止めることはできなかった。さながら野戦病院のような様相だった。


2日後の1月19日になって、電気がついた時、校内の空気が全く変わったそうです。暗闇が去って1人1人の顔が照らし出されると、期せずして歓声があちこちから上がりました。「あの光が、生きる勇気を湧き立たせたんです」と、上田先生は話していました。

翌20日には、トイレが大変なことになっていました。避難してきている女性たちが手袋をして、手ですくって全部外に出して。男性は校庭の一角を掘って仮設トイレを作りました。上田先生が「あの時のお母さんたちは、ものすごく偉かったです」と言っていたのは、30年経った今でもはっきり覚えています。

上田先生がまとめた震災直後の福池小学校3日間の記録は、神戸市教委『阪神・淡路大震災と神戸の学校教育』(26~28ページ)に掲載され、ネット公開されています。