三木総理大臣からの一本の電話

ちょうどこの頃、ロスに滞在していた堀田に日本から一本の国際電話がかかってきた。
田中元総理逮捕の1カ月前のことである。
なんと、電話の主は現職の総理大臣、三木武夫だった。
捜査の進捗状況を探る異例の電話だった。

事件から30年後の2006年、堀田はTBSのインタビューでこう振り返っている。

「捜査の進捗状況を知りたいという主旨でした。
はたして捜査はどこまでのびるのか、いつやるのか(着手するのか)などを聞かれました。
現職の総理大臣からの電話など異例中の異例です。
すでに自民党内で、三木さんを引きずり降ろそうという『三木おろし』がはじまっていましたし、切羽詰まった様子がひしひしと感じられました」

堀田は三木の置かれた状況を理解しつつも、捜査内容については答えを差し控えた。
その後、三木から再び電話が掛かってくることはなかったという。

一方で、特捜部は6月以降、丸紅のキーマンを次々と逮捕。
もはや、コーチャン副会長らの「嘱託尋問」の結果を待っている余裕はなかったのだ。
収賄罪の「時効3年」の期限が8月9日に迫っていたからだ。(のちに法改正で5年に)
丸紅専務から田中元総理の秘書に1回目の現金が渡されたのが、3年前の1973年8月10日だと認定していたからだ。
この期日を過ぎれば、田中元総理を訴追する機会が失われる可能性があった。

6月22日、丸紅の大久保専務を偽証容疑で逮捕。大久保専務は、檜山会長とともに田中邸を訪問していたキーパーソンの一人で、ロッキード事件で初の逮捕者となった。
(贈賄、外為法、偽証の罪で上告中に死去)
大久保専務から供述を引き出したのは“落としのムラツネ”と言われた村田恒検事(10期)だった。相手の心を静かに崩していくことで知られていた。
黙秘を続ける大久保、取調室に重い沈黙が漂うなか、村田は、自らの生い立ちを語りはじめた。

「実家は三重県の津です。乳牛を30頭ほど飼っていましたが、小学校5年生の時、戦争が起きました。B29の爆撃を受けて、家が全壊しました。
財産は一切なくなり、母親は足を負傷し、姉も亡くなりました。それでも兄が貧乏しながら学費を工面してくれて、なんとか大学に行くことができたんです」

大久保は少しづつ村田に胸襟を開き、打ち解けていったという。やがて容疑を認めた。

「檜山と田中邸に同行し、その際ロ社からの支出すべき金額が、5億円になったと聞きました」
「檜山の指示でコーチャンと交渉し、トライスターの売り込みに成功したら、5億円を出してもらうことなりました」
「クラッターから『金の準備が整った』という連絡を受け、それを伊藤専務に取次ぎました」(公判記録より)

大久保はさらに、ロッキード発覚直後に現地調査に行って、帰国すると、シナリオができていて、それは全て檜山会長と伊藤専務が主導したものだと主張した。
また米国でのコーチャン副会長の証言を受けて、檜山会長が激怒し、「謝罪文をもらってこい」と指示を受け、コーチャンに依頼して謝罪文を書かせた経緯なども明らかにしたのだ。

村田は大久保について「彼が誠実で真摯な人間であることは、取り調べの中ですぐにわかった」と後に語っている。

田中逮捕の約1か月前、堀田に電話を掛けた三木武夫総理大臣(当時)