「そういう報告を聞けたら、もっと嬉しい」

イチローには、この時期に思い出すことがある。阪神・淡路大震災(1995年)。あれから、まもなく30年が経つ。当時イチローは神戸市西区にあったオリックスの寮にいた。

当時を振り返るイチロー

イチロー:ものすごい地響きみたいな音がして、寮にでっかいトラックが突っ込んだんじゃないかと思ったんですよ。だからズドーンって言うから。え?こんな時間に。そうしたら揺れ始めたんでこれ地震だと。逃げたい気持ちが。あれ、本能的なものですよね。じっとしてたら駄目だ。でも、立てないでしょ。あの時間中、ベッドの中にいるんだけど、立てない。立てないからもうこれうずくまるしかないと。こうやって布団かぶって。それがおさまって2階に食堂があるんだけれど、もうパンツ1枚で食堂に集まるという、そういう経験でした。あの時は、キャンプの2週間前でしたから、キャンプ無理だなと。少なくとも、初日に全員が集まることはできないと、みんな思ったと思います。だからそこはもう、個人の事情というか状態に委ねられたんですよね。でも全員集まったんですよ。これすごいことだなと思って。そこで何か、僕らがやることをやらなきゃいけないっていうか、やりたいことっていうのは、明確になった記憶がありますね。これはもう今年やるしかないと。

「がんばろうKOBE」その合言葉をユニフォームに縫い付けて、チームはシーズンに臨んだ。

選手と街の思いが、確かな力となった。その年、オリックスは初優勝。リーグ優勝の翌年には日本一に。2年連続の活躍は、神戸復興の象徴となった。

自分のために続けてきた野球。それが、フィールドを超えて、社会に何かを還すことにつながった。野球の、そんな力を知っているから、今も“51番”を背負うのかもしれない。

イチローが、伝えたいこと。

イチロー:野球で結果を残してくれたら、めちゃうれしいですよ。もっと嬉しいのはその先だと思うね。こんな大人になりました、と。そういう報告を聞けたら、もっと嬉しいと思う。野球やってなかったら、みんなと出会っていなかったわけだからね。人との出会いなんてそういうもんですよ、奇跡だからね。そういうものも大事にしてほしい。
僕が期待するのは、そういう人の痛みとか気持ちを自分なりに想像したり考えたりすること。そういう優しい人になって欲しい、というのが僕の一番期待することですね。ただ野球がうまくなってほしい、だけじゃないです。もっと大きなところというかね、そういう優しい人になって欲しいね。みんなどこかで僕を見かけたら必ず声をかけてください。ありがとうございました。頑張ってね。

来年1月、日米で野球の殿堂入りが期待されている。けれどそれはゴールではない。野球とは何か。その答えを探して、イチローは走り続ける。

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