「米がない!」ので行列とデモと泥棒と

当時の細川政権は、まず備蓄米を放出しようとしたのですが、じつはこの頃、古米、古古米と言われて嫌われた備蓄米は、最初から十分な量がありませんでした。昭和の中後期から「米あまり」「米あまり」と言われ、政府はそれまで減反政策(水田を少なくする政策)を補助金まで払って推進してきたのです。

昭和40年代以降の米政策は基本的に「米の生産を減らす」方向でした。

ところが、気づくと米がありません。その年の収穫は781万1,000トンと、前年比の74.1%にまで落ち込みました(作況指数74)。単純計算で270万トン以上足りなくなったのです。

スーパーの棚にはすでになにもありません。発売日には長蛇の列ができ、人びとは少ない米を手に入れようとしました。

93年〜94年の冬、このような光景は全国各地で見られました。

それでも手に入れられない場合は「ヤミ米」に手を出すことになります。いわゆる正規のルートを通らない米という意味ですが、当然のようにその価格は暴騰しました。戦後の話じゃないですよ、平成の世の中で。

米を盗んでヤミでさばくとおカネになった、とされました。

ついには、米の生産農家に米泥棒が現れ始めました。平成の世の中で!