制作部門に復帰、伝説のお笑い番組「THE MANZAI」の誕生

各務 それで、お笑い番組に戻られるというか、復帰されて。

横澤 それもね、調子悪い時って、結構人事異動が多いんだね。ちょっと年をとっていた、ベテランのお笑い系のプロデューサーが全部ね、美術行ったり、移っちゃったんですよ。

各務 ああ。

横澤 で、いなくなっちゃったんで、どうしようって会社も考えたんだね、「そういえば、なんか君、昔お笑いやってたんだろう」「やってました」みたいな話で戻ることになって。それで、ちょっとスタジオ収録を見に行ったんですよ。当時、近所のおばちゃんみたいな暇な人を集めてきて、スタジオにお客さんとして入ってもらうシステムがありましてね。

各務 ええ。ええ。

横澤 で、ふっとスタジオに入ったら、俺が昔ADでやっていた時と同じおばちゃんがいるわけ、そこに。それで同じように「ぐはは、ぐはは」ってね、大笑いしてくれる。サービス精神でね。

各務 ええ。

横澤 笑ってくれるんだけど、いやいや、これはやっぱりいかがなものかと思いましたよ。まず真っ先に、これはいかんだろうと、いくらなんでも。

各務 その頃はまだいわゆる、お笑い屋っていうのを入れてたんですか。

横澤 そうそう、お笑い屋ですね。そんなこともあって、いかにも古めかしいなと痛感しましたね。

各務 それで構造改革をしようと思われたんですか。

横澤 思いましたよ。もちろん思いましたね。

各務 で、具体的にはそれが「THE MANZAI」※ なんかに出てくるわけですか。

※ (1980年~)火曜ワイドスペシャル(20:00-21:30)で放送。若い世代に向けての「漫才ブーム」の起点となり、その後の「オレたちひょうきん族」の基盤となった

横澤 そうですね。そういう番組として出てきたと思うんです。

各務 「THE MANZAI」っていう、ローマ字の表記、命名はやっぱり横澤さんですか。

横澤 はい。悩んでたんですよ、タイトルをどうしようかって。だって、本当のこと言って、最初あの番組をやりたくなかったんですよ。

各務 そうなんですか。

横澤 「勘弁してくださいよ」って言ったのね、どうしてかっていうと、当時、企画書を強制的に何個か出さなくちゃいけなかったんですね。

で、別にやる気もなく、ただいっぱい書いたんです。そしたら、漫才の番組をやると視聴率が取れるんじゃないかって、編成のスタッフが思い至りましてですね。でまぁ、何はともあれ企画ファイルをばぁっと見てったら「東西対抗漫才大会」っていう企画があったんですよ。そしたらそこに「横澤」って書いてあったわけ、企画提出者の欄に。

それで呼ばれて「ちょっと漫才番組やんないか」って言うわけ。「それ、いつなんですか」って言ったら「4月1日だ」って言うんですよ。「えっ、それ、特番のとこじゃないですか!特番やる枠でしょ?」って。

各務 はい。

横澤 そしたらね、どうも予定してたものが、コケちゃったと。裏にTBSの「ドリフの全員集合」の特番が入っているわけ。

各務 ええ。

横澤 要は勝ち目がないから、スッとコケたらしいんだ。それを穴埋めしろってわけ、突然。ゴールデン(ゴールデンタイム・19時~22時)でそういうお笑い番組が放映されるなんてのは、当時のフジテレビにとっては何年ぶりっていうぐらいですからね。急遽どうしようかって、スタッフみんなで考えて。

まず、どういうことやりたいんだって言ったら、さっきちょっとお話ししたように、構造改革をしたいとみんな言うんですね。セットから赤い提灯を廃止したいとか、いろいろ意見がありましてね。

各務 なるほど。

横澤 それで「東西対抗漫才大会」はいかにも古臭いから、そうじゃないタイトルを考えなきゃいかんと。そしたら、美術のデザイナー、高橋さんっていうんですけど、その人がね、セットプランを持って来たんです。ラフのセットプラン。そしたら、演者がやる後ろに切り文字で「MANZAI」と電飾で置きたいと、きったなく書いてあるわけ。

各務 はい。

横澤 もうそれ見たときね、4人くらいでぱっと見たんだけど、電気に打たれましたね。「これ、これ、これ、」みたいな。それで「THE」を付けて「THE MANZAI」にしようと。

各務 なるほど。

横澤 で、それを持ってったら「とんでもない」って言われて。

各務 とんでもないって言われた? 

横澤 言われましたよ。こっちもそれこそ「とんでもない」って言い返して喧嘩になって。それで1回目は、妥協案として「THE MANZAI」も生きましたけど、ぐじゃぐじゃ説明が付いたタイトルになってしまったんです※。

※ 1980年4月1日火曜ワイドスペシャル(第1回)「THE MANZAI~翔べ!笑いの黙示録東西激突!残酷!ツッパリナンセンス」

でも出演者は、とにかく有名無名に関係なく、自分たちが聞いてみて、何かメッセージを感じる人、メッセージ性を持ってる人にしようということで、見て回りました。それで(テレビでは)やったことのないような人を連れてきたんです。それが成功した一つの(要因)。若手というか、今まで全国ネットの放送に出たことのない人たちが出てきたのが、ショックだったんじゃないでしょうかね、第一段階としては。