「放送人の会」が記録した放送界に携わった偉大な先人たちのインタビュー集から、今回はフジテレビの「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」等で名を馳せたプロデューサー、横澤彪氏をお届けする。聞き手はNHKでドキュメンタリーを担当した各務孝氏。

こき使われたAD時代

各務 フジテレビへ入社されたのは、たしか昭和37年、1962年ですか。

横澤 そうですね。

各務 それで最初、AD(アシスタント・ディレクター)をやってらした頃は、どういった番組についていたんですか。

横澤 最初に配属されたのは、編成局第2制作部というところで、教養番組セクションなんですよ。ですから教養番組といわれるものをやらされましたね。

各務 その頃、早く亡くなった(林家)三平さん(1925〜1980)なんかとお知り合いになったわけですか。

横澤 そうですね。当時は生放送が多かったもんで、ADが足りなくなるんですよ。そうすると「悪いけど、今週ちょっとこの番組やれ」とか言われて、付き合わされるんですね。ですから、三平さんの番組、昼くらいの生放送だったりですね。そういうのにお付き合いしなくちゃいけない。もう、今から考えれば想像を絶するぐらい人手不足なんです。一人で何でもやれっていうようなね。

各務 それで、これじゃいかにも重労働だということで、組合に。

横澤 若いADがこき使われて、非常におかしいと、それが主な争点。まあ、組合を結成したんですが、えらいことになりました、はい。

各務 それが理由で、産経出版ですか、そちらの方に入った。

横澤 正確に言うとフジテレビ事業局勤務ですね、最初は。で、そこで配属された部長さんが、マーチャンダイジングと出版と両方やりたいっていうプロジェクトの所で、若いの俺しかいないってとこですね。で、フジテレビのこの出版部門を産経新聞にくっつけるということで、産経に行ったんですよ。

各務 でもそこにたしか、7年間くらい行ってたわけでしょ。

横澤 いやいや。ええと(1970年から)5年。産経新聞に、出っ張ってたのは4年くらいじゃないですか。