ついに野村証券元社長逮捕

さて総会屋事件に戻る。毎日新聞が酒巻元社長逮捕を予告する「前打ち報道」をした翌日、1997年5月30日の早朝6時すぎ、東京地検特捜部の係官3人が、酒巻元社長の住む東京・渋谷区の「広尾ガーデンヒルズ」に入った。
約30分が過ぎたころ、エントランスから出てきた東京地検の係官が報道陣に向かって、こう説明した。

「本人は逃げたり隠れたりするつもりはない。堂々と出たいと言ってるから、追いかけないでいただきたい」

続いて2人の係官に、両脇をはさまれながら酒巻が姿を見せた。白いワイシャツの上にダークスーツ。胸には野村証券の社章、シルバーのピンバッジが輝いていた。この社章は、野村家の由緒ある紋章の「蔦の葉」と、屋号の 「ヤマト」 をあしらったもので、業界ではその形からへとへとまで働く「ヘトヘトマーク」とも呼ばれていた。

任意同行を求められた酒巻はゆっくりした足取りで車に乗り込み、約15分で霞ヶ関の東京地検に到着した。特捜部は午前6時45分、野村証券元社長の酒巻英雄容疑者を商法違反(利益供与)の疑いで逮捕し、東京拘置所に移送した。
実はこのときTBSは、酒巻がマンションから任意同行される現場を捉えることができなかった。特捜部が、「前打ち報道」の翌日にすぐ着手したからだ。

おおよその場合、強制捜査の「仕切り直しの着手」は「前打ち報道」から早くて数日後、それどころか数週間後に逮捕することもざらにある。翌日着手は極めて異例のケースであった。なぜならガサ入れのスタンバイしていた多くの検察事務官をいったん解除することは、かなりの消耗を強いることにもなり、翌日集合は負担が大きい。また前打ち報道が検察リークとの誤解を持たれないよう、間隔を空けて着手する場合が多かったのだ。

バブル時代に政権中枢を直撃した「リクルート事件」でこんなエピソードがある。特捜部はリクルート本社への強制捜査、ガサ入れを1988年「10月17日」に実施することを極秘で予定していた。「労働省ルート」の班長だった熊﨑勝彦(24期)は当日、約50人の検察事務官らを率いて、JR新橋駅前に集合していた。

しかし、ある全国紙が当日の朝刊一面トップに「リクルートを強制捜査へ」と「前打ち報道」を掲載したため、当時の東京地検の次席検事が激怒し、ガサ入れを急遽、中止したのである。連絡を受けた熊﨑らは解散して帰宅したという。最終的に強制捜査に着手したのは、1日挟んだ2日後の「10月19日」だった。

東京拘置所へ入る酒巻元社長(左)と松井検事(右)1997年5月30日