19世紀末から始まった電気的機器とジェンダーの関係

このように、本来一体であるはずの声と身体は、自動化という身体を排除する作業を契機に、声だけが切り離されるようになった。しかし、自動化以前から声と身体は切り離された存在として、社会のなかに存在していたのだ。

生身の声が身体から切り離されて独立した存在となったのは、1876年にアレクサンダー・グラハム・ベルが発明した電話からである。電話が発明されるまでは声と身体は必ず一対で存在していたが、電話は声と身体を切り離し、声だけを遠隔地に届ける技術として社会に示された。

しかし、当時の人びとは声と身体が切り離されることをうまく理解できず、声だけで会話する道具としての電話とは異なる使い方をしていた。初期の電話は、劇場から離れた場所でオペラや歌劇を楽しむ「音の娯楽装置」として、あるいは利用者の自宅に声で情報を届ける「声の情報装置」として使われていた。

劇場の生中継は、ホテルのロビーに置かれた受話装置にコインを入れ、一定時間中継音声が聞けるという仕組みだった。また、情報装置としての電話は、現在のラジオのようなタイムスケジュールを持ち、朝8時から夜10時半までさまざまな声と音の情報や娯楽を提供した。スケジュールも時間帯によって変わるユーザー・オリエンテッドに編成され、一ヵ所の電話局から多数の利用者へ情報を伝える、一種のマス・メディア的な有線ラジオとして存在していたのだ。

やがて、声の双方向コミュニケーション装置としての電話利用が広まっていくと、身体から切り離された声は浮遊し、声だけが意識を持つようになる。意識を持った声は切り離された身体が属する社会との関係性からは離れられずに、見えない社会階層やジェンダー規範との結びつきが維持された。

例えば、電話の初期利用者であった男性ブルジョアジーと中産階級出身の女性交換手は、それぞれの身体が属する社会階層のジェンダー規範を、声だけのコミュニケーションにそのまま置き換えた。初期の電話交換手は10代の労働者階級の少年たちだったが、上流階級の電話利用者たちが求めた従順で補助的な役割にうまく応えることができなかった。

その大きな理由としては、声だけのコミュニケーションが服装や儀礼と言った視覚的階級差、並びに言葉遣いという一種のハビトゥスを排除してしまったからだ。社会のなかでは対面でのコミュニケーションが希有であった階級差を、声はいとも簡単に埋めてしまったのだ。その結果、男性交換手は女性交換手へと転換してゆくことになった。

女性交換手は、電話回線を接続するという本来の交換手の仕事ではなく、男性利用者の補助や手伝いをする「女性」交換手という存在として認知された。同時に、女性交換手たちもそのことに従順に従っていたのは、彼女たちが属していた中産階級が、19世紀末のビクトリア朝的社会規範である「女性は家庭において子育てや家事全般を行う補助的な存在」のなかで生きていたからである。そのため、女性交換手たちの声は身体から切り離されてもなお、男性の補助という役割を担い続けていたのである。

一方、1890年(明治23)年に東京―横浜間で日本最初の電話サービスが始まった当初は男性交換手と若干の女性交換手が働いていたが、日本における女性の補助的な役割というジェンダー規範のなかで、次第に女性へと置き換わった。電話利用者の大半を占める男性利用者たちは、女性交換手の「女性」としての身体と同様に、身体から切り離された「声」にも新たな関心をもった。「声のルッキズム」の誕生である。

身体の見えない声は直接耳という聴覚器官に刺激として注入され、鼓膜と感情を震わせる。声は、女性という身体とは別の性的な感情を引き起こす。同時に、その声は社会における女性という役割も纏ったまま、身体と引き離されて浮遊しつづけたのだ。

先述の「職業婦人」が社会に登場し、女性たちの声が身体と共にさまざまな職業場面で社会に現れるようになった。それまで家庭の奥に閉ざされていた女性の声は社会の表に移動したが、女性への眼差しやジェンダー規範は依然として家の奥に置き去りにされたままであったのだ。