「中村」という叔母家族が住んでいた城山町に、母と弟の3人で身を寄せることになりました。

引っ越しは、8月9日──
11歳だったじいちゃんに母がこう言いました。


祖父:「自分は仕事のあっけんか。片づけて、弟と昼から行くけんか。お前一人、先に行っとけって」


城山町の叔母家族とはそれまで一度も会ったことがなかったそうですが、母の言いつけ通り、一人で向かいました。

祖父:「お!あすこに、こう向こうに建っとったっさ。こう、こう」


叔母の家に着くなり、『防空壕掘り』を手伝うよう言われ、年の近い、いとこや近所の子どもら5人で防空壕を掘っていました。


そして、他の子が休憩のため家に戻り、一人掘り続けていたところに原爆が投下されました。

■ 一人で逃げているときに見た惨状「人間は誰もお互い様だからね…」

祖父:
「家は吹っ飛ばされてぺしゃんこになったりね。形は全然なか。人間も一人も見えん。そしてね、下の方では煙のどんどんあがりよっとさ。
したら今度は、家の多かところはメラメラ燃えよっさ。『こっから下は逃げられんばい』というところで、考えた末に、この道ばね、結局 山の方に…」


山道をひとり歩き続け、夕方近くに辿り着いたのが現在の聖マリア学院付近。
当時は三菱長崎造船所の寮でした。

祖父:「このへんは昔、田んぼやった」

そこには焼けただれた数十人の人たちが、田んぼにひく水を求めて集まってきていました。じいちゃんも皆と同じように、その水を飲みました。

祖父:
「上着ば着て、黒ズボンば履いてね、革靴を履いた人が来て『ぼく、僕にも水ば飲ましてくれ』って言うてね。手ばつけてこう飲んだけど、こっからボロボロ流れよるっさ。ここば切っとったい、ガラスかなんかで。で、しばらくしたら、『ぼく、人間は誰もお互い様だからね』って、『ありがとう』って言って行きよったら、もう向こうの方で倒れたよ。見ておられん」

その後、じいちゃんを探していた父や兄と運よく出会い、自宅に帰ることができたそうです。

感情論は捨て 未来を考えて生きた


両親(曾祖父母)と兄弟は全員無事で、中学からは西彼杵郡黒崎村に移り住み、18歳で上京。
原爆のことを思い返すことなく生きてきました。


祖父:「原爆の感情論っていうのは一応捨てとったと。未来しか考えんごとしとっと。原爆の落ちた後は…」

今回、初めて被爆体験を語ってくれたじいちゃん。
孫たちに同じ思いをさせたくないという願いを込めて話してくれたんだろうと感じました。

祖父:「絶対戦争はしたらダメって絶対。戦争はね、誰もしたらいかんて。そりゃもうはっきりね、一番熱望しとる」

今回の取材をきっかけに中村家の消息が77年ぶりに明らかになりました。
後編は「今、悔やむ気持ちが湧いてきた」