■トラウデン直美さんが聞く、壮絶な抑留経験

トラウデン直美さんがこの日、話を聞いたのは近田明良さん、96歳です。
戦後、ソ連軍によってシベリアに連行された経験を持ちます。
シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「ニュースを見ると、同じことを今やってるんだなと」
「七十何年前と同じことですもんね。それが一番残念。何とかこれを収める方法はないか、話し合いができないかと、そのことでいっぱいですね」
近田さんの中で、終戦直後に体験した過酷なシベリア抑留の記憶が、「今」と重なっていました。
■シベリア抑留 飢えと寒さと・・・忘れられない記憶

京都・舞鶴市。この街にある「舞鶴引揚記念館」。
ここには、近田さんたちが経験したシベリアでの抑留生活に関する、貴重な資料が数多く残されています。

舞鶴引揚記念館 長嶺睦さん
「ここは抑留生活体験室と言ってシベリアの収容所、ラーゲリと言うんですけど、それを忠実に再現したものです」
トラウデン直美さん
「本当にこのくらい薄暗かったんですか」
舞鶴引揚記念館 長嶺睦さん
「そうですね。しかもこの部屋の温度…寒いですよね」

1945年8月、日本は敗戦。
満州などにいた日本人およそ60万人がソ連によってシベリアなどに連行されました。
ソ連兵に、ロシア語で「家に帰る」を意味する「ダモイ」と嘘をつかれ、騙されて列車に乗せられたのです。近田さんも、その一人でした。

シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「東でなくて西のほうへ向かっていった。これは帰るというのは嘘だなというのがそこではっきり分かったわけですね」
近田さんは、マイナス20度という極寒の地で、木の伐採など過酷な重労働を強いられました。
シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「栄養失調と、それから寒さと。部屋の中で亡くなっている人もいました」
私たちは今回、舞鶴の記念館から許可をもらい、普段は公開していないという収蔵庫の中を、特別に見せてもらいました。
そこには、シベリア抑留の経験者によって描かれた、当時の記憶をとどめる、様々な絵が収められています。

舞鶴引揚記念館 長嶺睦さん
「これは『二冬越した捕虜』というタイトルがついている」
がりがりにやせ細った男性。
十分な食事も与えられず栄養不足で弱った自身の姿を、抑留者自らが描いた作品です。

シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「その当時の食事というのもほんのわずかです。パンの支給がされますけどもね」
支給されたわずかな黒パンを、同じ重さになるようにきって、20人で分けたそうです。
シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「『そっちが重いぞ』っていうと、パンくずをそっちへ少しのせて合わせるようにして。餓鬼、畜生みたいなもので、パン分けるのにもみんな命がけで見つめて分けるような、そういう生活でした」
近田さんには、忘れられないことがあります。その日の過酷な労働を終え、同じ部屋の仲間が飲み水にするための雪を取りに行った、その時ーー。
シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「パパパパーンと3発か4発。なんだこんな時間に遅く、何があったといって出てみたらば、その戦友が倒れていたんです」
脱走しようとしたと思われたのか、ソ連兵に銃殺されたのです。

シベリア抑留経験者 近田明良さん(96)
「その人がよく、ポケットから写真を出してね、『これが俺の息子だぞ』って言って写真を見せてくれたんです。小学2年生ぐらいの男の子。あとのご家族がどういう状態にこれからなっていくかね。今でもそれを考えると、話するのも辛い。話するのも辛いですよ。そんな状況で亡くなっていきました」
収容所では、寒さや飢え、重労働などによって抑留者およそ6万人、10人に1人が命を落としたと言われています。