アジア太平洋戦争中、“不都合”な情報の一切は表に出ることはありませんでした。「負けた状態をいくら撮っても、国内で発表しない」。“地獄”となった戦場を伝えることができなかった当時のメディア人の思いを取材しました。
■「こんなアメリカ軍に竹やりでどう立ち向かうのか」伝えられなかった戦場の“地獄” 従軍カメラマン・潮田三代治さん

過酷な戦場で軍と行動を共にしたカメラマンがいる。潮田三代治(うしおだ・みよじ)さんだ。(享年104)


潮田さんは史上最悪といわれるインパール作戦や連合艦隊が壊滅状態になったレイテ島の戦いなど多くの激戦地を撮り続けてきた。200本近いフィルムを日本に送った。しかし実際に公開されたのはわずか3本だけだった。
2005年のインタビュー映像が残っている。

潮田さん(当時87歳)
「ただ問題は、負けた状態をいくら撮っても、国内で発表しないんですよ。そういう時代を僕は非常に悲しいとおもってましたね。」

2021年9月に亡くなるまで暮らしていた自宅を特別に娘の多美子さんが案内してくれた。


ーーこれはお父さまの仕事場みたいな?
娘 矢部多美子さん(69)
「仕事場みたいな感じでしたね、昔はね」
ーー全部フィルム缶だ
戦後も東京オリンピックなどの映像制作に携わり、退職後は後進の指導にも力を入れていたという。
ーー撮影してきたフィルムが、ほとんど使われていないと知ったとき、どんな思いだったんでしょうか

娘 矢部多美子さん
「だから、なんか途中からやめたって言ってましたよね、あの負けてるところを映しても、いくら映して送っても全く放映されないので、途中でもう負けてる感じは撮らないようにしたって言ってましたよね」

これは潮田さんが書き残した回顧録だ。1945年=終戦の年の3月に帰国し、
陸軍の参謀と会食した際のエピソードが記されている。

「千載一隅のチャンスが来たと思った」
「今夜は言いたい事が全部言える」
参謀からは“戦地の情報が軍にも全然入らないので見たままの様子を話してほしい“と告げられた。

「日本軍は今や完全に壊滅状態にある」
「こんなアメリカ軍に竹やりでどう立ち向かうのか」
「犠牲を少なくするために、安全なところに避難する様にとどうして言えないのか」
「このまま戦局を持ちこたえられるのか?との私の問いに三人の参謀はうつむいたまま、一言も発しなかった」

娘 矢部多美子さん
「自分は地獄を見てきたってよく言ってましたよね」
ーーそういった地獄の記録っていうのも我々きちっと受け止めないといけなかったんですよね。
娘 矢部多美子さん
「悔しかったと思います」