踏み込むきっかけは“トラブルメーカー”としてのドローン
「これは放送素材、報道のツールになりうるか?」それまで実際に見たことのない新たな機器の存在を知り最初の検討を始めたのは10年半前の2013年の暮れのことでした。
「ドローン」、今でこそ一般化した名前ですが、最初に着目した2013年当時は値段やそれをめぐる法体系、操縦法、機械的な仕組みなど全く知らず、ラジコンの一種(それは間違いではないが)としか思っていませんでした。ただ急激に普及し始め、すでに存在を無視できない機器になっていたのも事実です。
しばらくは関係ないと思っていたものに一歩踏み込むことになったのは、普及と同時に問題となっていたドローンをめぐる事故やトラブル、法体系の遅れを取材したことでした。2015年のことです。最初は「トラブルメーカーのドローン」として向き合うことになったのです。
長崎にはかなり早くからドローン映像を専門にしていた「あおぞら映像(現Tamosan Drone)」というプロダクションがあり、そこの田本久さんに強化されるドローンの法体系と今後のドローンの可能性について取材をさせていただきました。その時、田本さんの勧めで初めて自分の手でドローンを操作しました。
空間を立体的に動く物体の操作は正直言って恐怖で、これに機体カメラのオペレートまでやるとなると手に負えないというのが最初の印象でした。何より「墜落事故」を起こすと世間的にどんなハレーションを起こすかわからない、当時は単なる面倒くさいテーマでしかなかったのです。その考えが変わるきっかけは自分の根底にあった災害報道の体験でした。
ドローン導入を本気にさせた雲仙普賢岳大火砕流の原体験
私は1990年NBC長崎放送に入社しました。最初に直面した大事故は「雲仙普賢岳大火砕流惨事」です。1991年6月3日、長崎県の雲仙普賢岳で「火砕流」の取材をしていた報道陣やタクシー運転手、消防団員、警察官、火山学者そして地元の住民合わせて43人が犠牲となりました。

なぜこんなことが起きてしまったのか?その理由としてマスコミの無理な取材が指摘されています。そのことをめぐる詳細や多様な意見についてはここで触れませんが、自分が当時感じていたのは「遠隔操作での取材の手法があれば悲劇は避けられたんじゃなかったのか」ということです。はからずも「あおぞら映像」の田本さんからもドローン取材時に同じことを言われました。その時、「報道機関にとって可能性のあるツールとしてドローン」の存在を初めて意識しました。
