
「無関心」という皮膜を切り裂く“異物”が異物でなくなるとき…
活動が終わりかけたころ、古澤さんに挨拶する若者がいた。古澤さんと同じスカーフを巻き、手には「パレスチナについて知ろう、話そう」「Free Free Palestine」「Stop Gaza Genocide」と書かれたダンボールの切れ端を持っている。彼もまたひとり、抗議のスタンディングをしているという。

たったひとりでも声を上げる人がいる。東京でも、北海道でも、沖縄でも。その姿を見て「やばい人」と思う人も少なくないだろう。その反応は、いまの社会を象徴している。古澤さんが自身を“異物”と表するように、ぼくたちの社会は、不都合な現実、目を背けたい事実、すぐに答えが出ない難題を「無関心」という被膜で覆い、見ないようにしているのではないだろうか。おかしいと思っても、その声を飲み込み、不正から目をそらしているのではないか。だが、「無関心」という薄っぺらい皮膜を切り裂く異物が異物でなくなるとき、本当の意味での自由や民主主義が実現できるのではないかと思う。

改札口に消えていく古澤さんの後姿を見てそんな感想を抱いたら、後日、彼からメッセージが届いた。
「自分、言い忘れたことがありました。それは、自分は何者でもなく、そして特別な存在でもない、交換可能な存在でありたいとおもってます。自分のような行動は普通のことなのだと思います」
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