昔ながらの建物が立ち並ぶ京都西陣地区。この場所で80年前に7発もの爆弾が落ち、およそ40人が亡くなりました。当時、10歳だった男性は家が全壊し、姉を失いました。「電線に着物と肉が引っかかっていた…」深い悲しみを感じながらも空襲のすさまじさが男性の脳裏に今でも焼きついています。当時、この空襲を「軽微だ」と報じたメディア。空襲がなかったといわれる京都の街で起きたことを伝える新たな動きを取材しました。
『鬼畜米英』学校教育も戦争一色 戦況厳しくも疎開できず

昔ながらの建物が立ち並ぶ京都西陣地区。80年前、ここで空襲があったことは、あまり知られていません。
水口章さん(90)。当時を知る数少ない生き証人のひとりです。
水口さんが空襲にあったのは10歳だった1945年。当時、小学4年生だった水口さんは、学校での授業も戦争一色に染まっていたといいます。
(水口さん)「『撃ちて止やまむ』とか『鬼畜米英』とか。習う歌も軍国調で、『加藤隼戦闘隊』とか。今思うと、戦意を高揚させられていたと」
日が経つにつれ戦況は厳しくなります。食べ物も少なくなり、友達はどんどん田舎へ疎開していきました。自分も友達と一緒に行きたいと両親に頼みましたが、叶いませんでした。














