最初の配属先・熊本で学んだ放送の原点 

鈴木 それから放送局ってのは何かっていうことも知らなきゃいけない。ゼロから始めなきゃいけないと。これが、よかれあしかれ役に立ったんですね。

隈部 うん。

鈴木 初めのうち仕事を覚えたいもんですから、先輩がちょっと風邪引いたっていうと、「私に『泊まり』をやらしてください」って言って。『泊まり』をやると夜6時から翌朝10時まで一人で責任負うわけで、しかも誰もいない。すると、仕事がたくさんあって覚えるんですね。ですから1週に2回も3回も泊まったんです。

で、そのうちにですね、私が配属先の熊本に行ったのが、5月の初めだったんですが、夏が終わったらいきなり「番組を作れ」って言われたんです。いや、私アナウンサーですよっつったら、朝7時15分から半までのローカル放送を1本、それから土曜日の4時半から5時までの30分を1本、この2本を作れって言われた。

で、朝のは、考えて、何やったらいいか分からないんですね。とにかく熊本県内を歩こうと思って、一番最初に行ったのが、あの池田屋で近藤勇<1834~1868>と渡り合った宮部鼎蔵※ の出生地だったんですよ。(※宮部鼎蔵<1820〜1864>尊王攘夷派の活動家) 

隈部 うん。

鈴木 それで、よしこれやろうっつってね、ええ、池田屋とは何かってのやってやろうと思って。それをいきなりですね、昔の映画でちゃんばら映画、ジャンジャン、ズンジャカチャッチャ、ズンジャッジャン、チャンチャカチャンって音楽があるんですよ。それ持ってきてね、「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」って、そっから放送始めたら。

隈部 うーん。

鈴木 熊本県人はびっくりした。それで怒られて、放送ってのはそういうことからやるんじゃないって。おはようございます、今日もおはようございます。それから今日はいいお天気。そっから始めんだって言われた。

いや、宮部鼎蔵でね、近藤勇と渡り合って階段から落っこって死んだ男だから、幕末のね、もう重大な池田屋って事件だから、それをやろうと思った。そしたらですね、阿蘇のほうに大学がキャンプを張ってたんですね。そっから一斉にですね、今朝の放送の資料をくださいって電話かかってきた。それで私、初めてね、放送ってのはこういうもんなんだと思ったんですね。

隈部 ほお。うん。

鈴木 ああ、聞いてる人がいろいろ参考にしたり、それを自分の勉強の資料にしたり、そういうことにも放送っての役立つんだな。ただ聞いてりゃいいっつうもんじゃないんだなと、そこで、そう思ったんですよ。

隈部 うん。

鈴木 放送っていうのはこうやって、人の知らないね。種を見つけてきて、そして、それをよく調べて放送してやると、こんなふうにみんなが喜ぶんだなって。大学の先生まで喜んでくれるんだなと思ったんです。