100回同じ場面が来ても100回そうする

この問題を含め、知事の不記載問題に対する一連の我が社の報道には、ありがたいことに多くの県民の方から激励を頂いた。お会いしたこともない視聴者の方から直接励ましの電話を受けたのは、記者人生で初めてだったと思う。会社の受付からもらった「お体に気をつけて頑張ってください 80代女性より電話」と書かれたメモは大切に保管してある。

それでも「この判断は正しかったのか」と何度も自問した。「要請を受け入れて他の項目に関するインタビューだけでも放送すべきだったか」または「受け入れたふりをして、だまし討ちすればよかったのか」。ただ、いかなる理由を探そうと「不記載の質問をしないでくれ」「はい、わかりました」とは言えない。それは100回同じ場面が来ても100回そうする。

最も重要だと思うのは、「未来の報道に対する責務を果たす」という事である。もしも県からの圧力に屈し、目先の不利益を考えて穏便にすませようとこの要請を受けてしまったら、将来自分に代わり県政を取材する後輩たちに悪しき前例を作ってしまうことになる。一度「事なかれ主義」へ逃げたら、それは必ず癖になる。そしてそれは必ず視聴者に見抜かれ、信頼という大きな財産を失う。政治も報道も、未来に対し正しい形でバトンを渡していかなければならないと思う。

報道のプロとして「当たり前の事」

私はいわゆる「ジャーナリスト」という言葉が好きではない。たいした人間でないことは自覚しているし、自分なりの正義感は持っているがその正義が絶対正しいとは思っていない。ただ、報道の仕事で給料をもらっている以上、報道のプロでなければならないと思っている。報道とは「道に報いる」と書く。自分のためではなく、他人のためにやるという事がプロとして当たり前だと思っている。

今回の一連の知事インタビューをめぐる問題は、数社がインタビューを終えてから県側が要請してきた事や順番が最後だった事など、たまたま我々が当事者になった面もある。同じような形で県側からの要請を受けていたら我々と同じように回答した他の報道機関もおそらくあっただろう。特別なことではなく報道機関として「当たり前の事」をしたに過ぎないと考えている。

ただ、知事は県議会の答弁で今回のインタビューについて「サービスのようなもの」と言った。私は「真剣勝負」のつもりで準備を進めていた。断じてサービスの手伝いをするつもりも、八百長をするつもりもなかった。政治への信頼が揺らいでいる中、県民に届けるインタビューへの認識に、そもそもずれがあったことが最もさみしい。