太平洋戦争末期、米軍機搭乗員3人が処刑された石垣島事件。BC級戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた46人の日本兵のうち、1審で死刑が宣告されたのは41人。そのうちの一人、炭床静男兵曹長の息子たちに会いに鹿児島市を訪れた。持参したのは、炭床静男の公判記録。父は石垣島事件にどのように関わったのか。父が証言台で話したことを息子たちは初めて知ったー。
◆口数少なく厳しかった父

取材に応じてくださった炭床静男の次男、健二さんと三男の浩さん。2021年2月の取材当時、73歳と63歳だった。静男は妻ミチエとの間に5人のこどもに恵まれた。健二さんによると家庭での父は、「まあ、やかましい厳しい人でした。口数は少なかったですけどね。よう怒られましたよ」ということだった。浩さんも「寡黙っていうか厳しい、手が先にぼこっと出るような感じ」で、「飲んだらちょっとは陽気になるかなっていうくらいで、それ以外は最小限のことしかしゃべりませんでしたからね」と語った。
炭床静男の軍歴には、「昭和32年(1957年)9月14日仮釈放」と記されているが、健二さんの記憶では小学校2、3年のころ帰ってきたということなので、正式な日付よりも前倒しで家にいたようだ。父からは、乗っていた戦艦のことなど戦争の話も聞いたけれども、戦犯に関わることは聞かなかった。
◆一切教えてくれなかった

健二さんは、周りの人たちから、「戦争犯罪人ということで死刑になり、巣鴨に入っていた」ということを教えてもらったという。また、「死刑判決は受けたけど、三番目か四番目のところで助かって帰ってこれたんだよ」っていうことも聞いて、直接父に尋ねてみたが、教えてくれなかった。
次男・健二さん「一切教えてくれませんでした。でも死刑(の判決)になったんですから、大きなことなんだと思っていました。でも、その当時はどういう理由で死刑になったのかっていうのはわからなかったです」
炭床静男は、一審と再審で死刑、再々審で重労働40年に減刑されているので、三番目のところで助かったということになるのだろう。健二さんは、「こういったことは、こどもには話さないですよね、私も言わないです」と父の心情を理解していた。
◆証言台で父が述べたこと

健二さんと浩さんに見ていただくために用意したのは、裁判資料だ。スガモプリズンに収監される前に福岡でとられた調書や検事調書など、国立公文書館などで入手し、炭床静男のものだと判明したものをすべて用意した。この中で、最終的に静男が自分が知り得る真実を述べていると思えるのは、1948年2月12日の被告人質問を記録したものだったので、それを見ていただくことにした。次男の健二さんは元警察官で、公判記録をお渡しすると淡々と音読してくださった。
<炭床静男被告人質問 1948年2月12日>外交史料館所蔵
炭床静男証人台に立つ
弁護人より弁護側第五十二号証(炭床静男口述書)を提出朗読した後、検事の反対尋問に対し答える