◆仮出所後、二人のこどもに恵まれ

仮出所後に生まれた幼い三男と四男を抱く夫婦の写真は、幸せそうに見えた。10年もの長い間、スガモプリズンで過ごし、一時は死刑囚として死と隣り合わせの日々を送り、ぎりぎりの所で減刑されて、処刑される仲間を見送った炭床静男は、41歳からは穏やかな生活を送ったようだった。農業をしながら農協に勤めて、定年後も理事を続けたという。幼い孫と一緒に写る晩年の夫婦の姿も落ち着いて見えた。
◆「講和記念」遺品の筆箱

健二さんと浩さんによると、父・静男はスガモプリズンでの話はほとんどしなかったということだった。自分が何をしてどんな戦争犯罪に問われたかは、全く話さなかった。電話でお話した四男の修さんは、巣鴨から帰ってきて、写経や読経をするようになったと言っていた。遺品でスガモプリズンを語るものは、小さな写真が数枚と木製の筆箱だけだった。筆箱には、「講和記念 於巣鴨」と文字が刻まれていた。「お父さんが巣鴨で作った筆箱」と聞いたので、浩さんが実家から貰ってきたのだという。サンフランシスコ平和条約(講和条約)に日本が署名したのは1951年。翌年発効している。平和条約を機にスガモプリズン内では早期釈放に向けて期待が高まっていたので、そのころ作られたものなのだろう。結局、仮釈放されたのは、1957年9月だった。
◆父の顔を知らなかった

次男の健二さんが生まれたのは、1947年8月15日。父がスガモプリズンに収監されたのは6月30日なので、生まれた時に父は居なかった。
(次男 健二さん)「(生まれる)2ヶ月前に親父はもう収監された、だから私は知らないんですよ、親父が居ないものと思って小さいころは育っているから」
浩さんから事前に送っていただいた集団面会時の記念写真を拡大したものを、健二さんに見てもらった。元の写真は虫眼鏡で見ないと顔がわからないサイズだ。皇居正門前に架かる二重橋を背景に撮影された写真だ。健二さんはすぐ母・ミチエの姿を見つけた。