◆26歳の学徒兵との別れ

取材に先立って、浩さんのもとには、すでに入手している歌集のコピーなど資料をお送りした。巣鴨遺書編纂会がまとめた「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」(1953年)の中には、炭床静男が成迫忠邦上等兵曹との思い出を綴ったものがあった。成迫上等兵曹は、石垣島事件で絞首刑となった7人のうちの1人で、大分県出身。26歳の若さで命を奪われた。
炭床兵曹長が石垣島警備隊に着任したのは、1944年の11月。成迫上等兵曹は、翌年、迫撃砲隊先任下士官として警備隊に加わったが、甲板士官の職にあった炭床兵曹長が「無理な注文をしても、努力してくれた」とある。
◆二畳の独房に同居

(十三号鉄扉「成迫忠邦君を憶う 炭床静男」より)
「君は最も若い先任下士官であり、然も学徒出陣の軍隊経歴の短い下士官であったにも拘わらず、戦局を良く理解し、最も良き協力者として戦闘作業の推進に努力して呉れたので、私には最も印象に残っているのである。裁判中に於ける態度も、長い軍隊経歴を有する吾々よりもしっかりしていて、感心させられたものである。判決を受けたその日の午後二時過ぎ、当時の死刑囚棟であった五棟に入れられたのであるが、成迫君と私は二畳の独房に同居することとなった。」
◆いよいよ来るべき日に備えて

死刑囚として成迫上等兵曹と過ごした炭床兵曹長は、再審で再び死刑を宣告され、来るべき日に備えて、苦しい日々を送っている。
(十三号鉄扉「成迫忠邦君を憶う 炭床静男」より)
「其の後約一ヶ月、君と起居を共にしたが、その当時は気分転換の為時々部屋の入替えが行われて居たので私も君と別れて他の者と同室することになった。一九四九年一月十日、石垣島事件関係者に対する米第八軍司令官の再審が発表された。そして遂に井上司令以下十三名の死刑は確定して、やがて絞首台に登るべき運命となった。成迫君も私もその同じ運命に置かれたのである。その頃は次々と死刑が執行されていたので、愈々来るべき日に備えて皆真剣に死の解決に苦しんだ。訪問時間には、関係者の室に集って互に心境を語り、又執行日の予想を話し合ったりして、全く陰惨な毎日を送ったのである。ところが、一九四九年もどうやら生き永らえて、新しい一九五〇年を迎えた。その一九五○年はキリストの聖年であった。聖年には死刑の執行はない。と本当ともうそともつかぬニュースが何処からともなく伝って来て、或は助かるかも知れぬ、とはかない希望も生まれて来るのであった」