アメリカの国立公文書館に収蔵されている、石垣島事件の法廷写真。弁護人に付き添われて判決を宣告される写真の人物が誰かを突き止めようとしていたところ、1枚の写真に写る男性の遺族に行き着いた。一審で死刑となり、その後、重労働40年に減刑。およそ10年をスガモプリズンで過ごした、その男性はー。

◆遺族から架かってきた電話

炭床静男兵曹長(遺族提供)

誰の写真かが特定できたのは、石垣島事件の当時、兵曹長だった炭床静男だ。炭床静男兵曹長は、戦犯たちが自ら戦犯裁判について記録を残した「戦犯裁判の実相」で、石垣島事件についてまとめている人物だ。裁判の概評として、

「本事件は、横浜全裁判中もっとも復讐的にして、残忍な裁判なり。いかに頭脳の良い裁判官にもかかる判決を出す為には相当に苦労せるものと思う。再審に際しても、第八軍で減刑になりし者より、GHQの再再審の結果、減刑になりし者が軽くなる等最後まで矛盾撞着に満つ」
(「戦犯裁判の実相」より 巣鴨法務委員会1952年)

と書いている。

◆31歳で死刑を宣告

「戦犯裁判の実相」復刻版

炭床静男は、1916年(大正5年)、鹿児島に生まれた。1933年、17歳の年に佐世保海兵団に入団以来、終戦まで海軍にいた職業軍人だ。海軍兵学校で教官を務めたこともある。死刑を宣告されたのは、誕生日の3日前、ぎりぎり31歳の時だった。

「すみとこ」という名前は珍しいので、住所地付近の同じ姓の人を当たっていくと、ご高齢の女性とそのお孫さんがお住まいの家に行き当たった。聞いてみると「炭床静男さん」を知っているという。写真を見てくださるということだったので、背景をぼかして、顔だけの確認が出来るように加工した写真を用意して、名刺を添えてお送りした。

およそ1ヶ月後、携帯電話に知らない番号から着信があり、出てみると、「炭床といいます」と男性が話したので、びっくりした。炭床静男の三男、浩さんだった。私が写真をお送りしたのは、遠縁にあたる方で、そこから浩さんの従兄弟に連絡があり、浩さんに行き着いたということだった。取材を受けていただけるか聞いてみると承諾してくださったので、準備に取りかかった。

◆石垣島事件を語るキーパーソン

「歌集 巣鴨」炭床静男の頁(巣鴨短歌会1953年)

炭床静男は、石垣島事件を語る上でのキーパーソンだ。処刑の現場に居て、一部始終を見ていた人であり、殺害された3人のうち、杭に縛られて銃剣で刺されたロイド兵曹に関わった1人でもある。スガモプリズンで1947年6月30日の入所から仮釈放まで10年の月日を過ごしたが、1949年7月から死刑囚棟で歌を作り始め、1953年に巣鴨短歌会が出版した「歌集 巣鴨」に歌が掲載されている。その当時、アララギ会員だった。

“死と定(き)まりし吾が身なれども今朝よりは風邪気味なれば下着重ねつ”

“父吾れの運命(さだめ)も知らず幼子は「すぐにかへれ」と手紙よこしぬ”

この二首は、死刑を宣告されたあと、減刑前に詠んだものだ。

連絡をくださった浩さんは三男で、1957年6月生まれ。炭床静男の軍歴によると、巣鴨からの仮釈放は同じ年の9月になっている。1952年のサンフランシスコ平和条約発効からは管理も緩やかになり、一時帰宅も出来たということなので、さほど珍しいことではない。そもそも歌集を出版するなど、現在の拘置所ではあり得ないことが行われているので、スガモプリズンは特殊なところであったのだと思う。