「迷いに迷っている」「体重が6kg減った」。
能登半島地震の発生時、石川県珠洲市で津波に巻き込まれながらも、一命を取り留めた市町俊男さん(75)。あれから2か月半が経った3月中旬、二次避難をしている金沢市内で、今の心境など話を聞くことができました。「Nスタ」ホラン千秋キャスターとともに取材した内容の一部を紹介します。(文:井上貴博)

「道路をつなぐこと」は「命をつなぐこと」

私が能登半島地震の被災地に最初に入ったのは、2024年1月4日のことでした。北陸新幹線で東京から金沢入りし、そこから車で珠洲市へ。道路が各所で寸断されていた影響などがあり、普段片道2時間半ほどの道のりが10時間ほどかかりました。

東日本大震災の時も陸路が寸断されましたが、それでも迂回路がありました。今回は半島ということで、迂回路が極めて少なく、ここまでアクセスが悪化するものかと驚いたものです。「道路をつなぐこと」は「命をつなぐこと」を意味していると痛感しました。

珠洲市での取材を通して、その後もLINEで連絡を取り続けている方が3人います。
避難所リーダーの多田さん、避難所サブリーダーの市町さん、書店経営の浅田さん。

珠洲市内の避難所となっていた小学校の体育館には800人ほどが詰めかける中、運営を担っていたのが多田さんと市町さんでした。震災直後の当時は寝る間を惜しんで動いてらっしゃいました。そんな疲労困憊の中、リーダーの多田さんが私に掛けてくださった第一声が「よく、東京から来てくれました。ありがとう」でした。この言葉は忘れられません。どこまで温かくて器の大きい方なんだろうかと。

多田進郎さん(写真左)

避難所のサブリーダーで防災士の資格をもつ市町さんは、津波にのまれ脚を負傷していました。それでも他の人のためにと、避難所で動いていらっしゃいました。思い出したくないであろう、発災直後の様子も話してくださいました。

市町俊男さん(写真右)
市町さんの自宅の様子(市町さん撮影)
市町さんの自宅の様子(市町さん撮影)

帰京後も、LINEで連絡をとらせていただいている中で、3月中旬に金沢を訪れることを報告したところ、市町さんは、二次避難で金沢にいるよと教えてくださりました。そして今回、ホラン千秋さんと共に、金沢市内で話を聞くことができました。