母親の遺体が見つかった時は、我を忘れるほど泣いた。それ以来、舞雪さんは一度もそのことで泣いたことはないと、木村さんは話しているが、本当はそうではなかった。
「避難していた小6の頃が一番つらくて。お母さんとおじいちゃんと汐凪が津波にのまれるっていう想像を何度もしちゃって、その度に、お父さんに隠れて泣いたりしていました。今も親の前で泣くのは苦手で、恥ずかしいとか、プライドみたいなやつです」

この日、同級生と再会し、お互いの成長を確かめあった。家族の死と一人で向き合おうとした日々は、記憶の奥底にしまいこんだ。
「地震も津波も自然のことだから仕方がない、みんな自然のなかに帰っていった。今はそう思えるようになって、区切りをつけて、受け止められている気がします。」
13年越しのホワイト・デー
学校開放2日目の2月3日。木村さんは、1年2組の教室で汐凪さんの同級生と再会した。
汐凪さんの1つ前の席だった川木さん(20歳)は、机の中のものを懐かしそうに、時に不思議そうに眺めていた。
「震災の後、1年ぐらいして、突然、汐凪ちゃんのお葬式に行くってなって。亡くなった実感はわかないですね。学校では、よく女の子のグループで遊んでいて、とにかく明るい子でした。」
少し照れた様子で言葉をつなぐ。
「バレンタイン・デーに、クラスのみんなにチョコレートを配って。僕ももらいました。」
別の保護者が「そういえば」と話す。
「うちの娘と汐凪ちゃんが約束していたの。チョコレート一緒に作ろうって。」
木村さんは、初めて聞く話に、笑みを浮かべ、教室には笑い声が響いた。
陸真さんは、帰り際に「これ汐凪ちゃんにあげてください」と、お菓子を渡した。次に登校するはずだったのは、3月14日。渡せなかったバレンタイン・デーのお返し。
木村さんは、汐凪さんの机にお菓子を置くと、こみ上げてくる思いをこらえて、教室を後にする陸真さんを笑顔で見送った。

「汐凪が、みんなの記憶のなかにいると思うと、嬉しいね。この教室も、当時の状態で残っているから思い出せることもあって、だから残してほしいですね」
同級生たちは「汐凪ちゃんと一緒のままで」と私物は持ち出さなかった。1年2組の教室は、あの日のまま、新たな時を刻み始めた。町は校舎を保存する方針を示しているが、具体的には何も決まっていない。
「汐凪が『忘れないで』って言っている」
木村さんは、震災と原発事故の語り部として伝承活動をしている。全国から依頼があり、月に10回ほど大熊町の帰還困難区域でガイドをしている。思い出してつらくなることもあるが、娘を思い、娘とつながる大切な時間でもある。
今年の2月10日、参加者を案内して、汐凪さんの遺骨が見つかった場所で語りかけた。
「復興も大事だけど、自分たちが犠牲になったことを乗り越えていくだけじゃ駄目だと思うんです。なぜ、こうなったのかを考えて、教訓を残していくことが必要だと。今の豊かな世の中の裏側にある現実、こういう悲劇が起きる可能性がある、その上に成り立つ社会への問いかけが、ここにはあると思います。」

木村さんは、小学校や被害の痕跡が残る建物を、原子力災害の遺構として残してほしいと訴える。
「汐凪が『忘れないで』って言っているような気もするし。ここは全く負の遺産ではなくて、教訓を学ぶ場であり、将来誰かの命を助けられる場になっていくと感じています。」