4月、妻の遺体が海で、父親が自宅前の田んぼで見つかるが、汐凪さんは行方不明のままだった。
母親は県内の復興住宅に入居し、木村さんは、舞雪さんと長野県白馬村で避難生活を送る。毎月1~2回、車で6時間かけて大熊町へ行き、汐凪さんを捜し続けた。
震災から5年9ヶ月が経った2016年12月。自宅から200メートルのところで汐凪さんの遺骨の一部が見つかった。当初、自衛隊や警察が捜索した時に積み上げていた瓦礫の中からだった。
待ち望んでいた結果のはずだったが、木村さんは表情を曇らせた。

「海に流されたわけではなく、ここにいたんですよ。原発事故がなければ、全町避難にならなければ、もしかしたら汐凪を助けられたかもしれない。すでに命がなかったとしても、こんな形で置き去りにされることはなかったのではないか。」
国や東京電力への怒りがわいた。同時に「原発は安全だ」と言われるままに信じて、その恩恵を受けていた自分に苛立った。
家族とつながれる場所で
2019年3月。木村さんは、大熊町に近い福島県いわき市で暮らし始める。捜索に力を入れたいと思っていた。
自宅の跡地は、中間貯蔵施設の敷地だった。県内の除染作業で出た放射性物質を含む土や廃棄物を2045年まで保管する。その量は東京ドーム約12個分、広さは東京都の渋谷区とほぼ同じだ。

国は、住民から土地の買い取りや借り上げを進めていた。家屋は解体され、田畑は整地されていく。瓦礫を分別する施設が立ち並び、運搬用の巨大なベルトコンベアが連なる。山積みされたフレコンバックの仮置き場が続き、土を埋め立てるすり鉢状の貯蔵施設が広がる。
木村さんは、土地の提供に応じていない。多くの住民が「復興のために」と、土地を手放すなかで、「なんであいつだけ」と非難の声も聞こえてきた。
「ここは家族とつながれる場所で、どこかに汐凪がまだ眠っている。そう思ったら中間貯蔵施設として造成されるのは、がまんできないんですよ」
重機の轟音が響く、変わり果てたふるさとの景色を眺めながら、いつもは穏やかな木村さんが、声を震わせた。
汐凪の花園
その年の4月の終わり、自宅跡地の向かいの田んぼ一面に、菜の花が揺れていた。青空の下、春の光に黄色が鮮やかに輝き、海からの風を受ける。木村さんが、秋から冬にかけて育ててきた。手作りの看板には「汐凪の花園」とあった。

「汐凪と遊んでいるような気持ちでやっているんで。って言いながら、つらくなるけどね」
笑顔が崩れ、涙が頬を伝う。照れくさそうに笑い、日差しに目を細める。
「いいですよね、風に揺れて。みんな喜んでいるみたいで」
長女・舞雪さんの13年
長女の舞雪さんは、震災の時、熊町小学校の4年生。教室には、今も、ランドセルや手提げ袋などが残っていた。自分の席に座り、ランドセルからプリントを取り出して、1枚ずつ広げていく。手を止めてじっと見つめ、おかしさを堪えきれないというように笑う。宿題をしなかったことで母親に叱られ、家から閉め出された日のことを思い出したのだ。悲しかった記憶のはずが、なぜか懐かしく、愛おしい。