賃金とインフレをどう考えるべきか

今回の講演で興味深かったのは、ウォーシュ議長が「基調的インフレ率を把握する上で、賃金上昇率は長い間、将来のインフレを予測する信頼できる指標ではなかった」と述べた点である。

確かに、この主張には一理ある。賃金と物価は相互に作用するものであり、常に賃金が先行するわけではない。例えば、コロナ後のサプライチェーン混乱やエネルギーショックでは、まず供給側の問題によって物価が上昇した。その後、家計が実質所得を維持するために賃上げを要求し、賃金上昇率が高まった。つまり、コスト・プッシュ型のインフレ局面では、むしろ物価上昇の方が先行することが多い。

しかし、そのことは賃金の重要性を否定するものではない。供給ショックが存在しない平時を考えれば、需要の強さを反映する賃金上昇率は将来の物価動向を判断するうえで依然として重要な指標である。賃金上昇率が安定的に低下していれば、中長期的なインフレ率も安定しやすい。もちろん再び供給ショックが発生する可能性は常にある。しかし、経済分析はまず平時、すなわち定常状態へ向かう動きを前提として行うべきであり、その意味では足元の賃金鈍化は依然としてインフレ沈静化を示唆する重要な材料と考えられる。

課題はインフレよりも実質金利上昇か

ウォーシュ議長の講演後の市場の反応をみると、米国債市場ではイールドカーブがまとまった幅でベアフラット化した。興味深いのは、長期のインフレ予想(10年BEI)が小幅に低下した一方で、長期金利は上昇したことである。具体的には、10年BEIが前日比▲1.6bpとなった一方で、長期金利は同+4.2bpとなった。FRBのタカ派スタンスが長期金利の抑制には寄与しなかったのである。BEIはもともとそれほど高い水準にはなかったため、タカ派的な発言を受けても低下幅は限定的だったと考えられる。

現在の米国の金融市場では、インフレ懸念よりも実質金利の上昇圧力が課題となっている。背景には、米財政赤字拡大への懸念や、AI投資を進めるハイパースケーラー各社の社債発行増加があるとみられる。このため、ベッセント財務長官は国債バイバックなどを通じて長期金利の上昇圧力を抑制しようとしている。

もちろん、将来的にインフレ懸念が再燃するのであれば、FRBが利上げを通じて長期金利を押し下げるべきだという議論は成り立つ。しかし、現状では状況が異なる。利上げ観測の高まりはインフレ予想の低下よりも大幅な実質金利上昇をもたらしており、結果として長期金利全体を押し上げている。米国金融市場が現在直面している問題はインフレ予想の上昇ではなく、実質金利上昇圧力の強まりなのである。

そう考えると、ウォーシュ議長の講演がタカ派だったことは事実だとしても、それだけをもって早期利上げが既定路線になったと考えるのは行き過ぎだろう。むしろ、インフレ指標が落ち着きを維持している現状では、長期金利の一段の上昇を招きかねない早期利上げを急ぐ合理性はなお限定的である。

(※情報提供、記事執筆:大和証券 チーフエコノミスト 末廣徹)